インタビュー02「自由か幸福か――配慮される社会と私たちの選択」/大屋雄裕

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今回は、名古屋大学大学院法学研究科准教授でいらっしゃいます大屋雄裕先生の研究室にお邪魔してレクチャーのこと、それから大屋先生ご自身についてお伺いしようと思います。



Q:まず先生ご自身の専門である法哲学という分野を分かりやすく説明して頂けますでしょうか。


まず法律学というのは大きく分けると実定法学と基礎法学という二つに分かれます。お医者さんで言うと、実定法学というのは病院で患者さんを診てる人たち、つまり実際に法律があるのでそれをどう保護してくのかとか、どう事件に当てはめていくのかという解釈を考える人たち。それに対して医学部においても基礎医学といって、有名なのは解剖学の養老孟司先生がいますが、医学に関わる事柄を科学的に研究する、必ずしも患者さんを診ない人たちがいます。それと同じように法律学にも基礎法学者といって、日本で有効な法律の話をしているのでは必ずしもなくて、それを取り巻くさまざまな事柄について科学的な探求をするという人たちがいるわけです。典型的には法制史学者というのは、法律や政治に関わるさまざまな事柄の歴史を研究する。だから法学部にいるけど研究手法は歴史学に近い。法哲学者というのもその一分野で、法に関わる事柄を哲学的に探求するということを使命にしています。そもそも法とは何かとか、あるいは法の解釈とか適用を我々はやるわけですが、これは一体哲学的に考えるとどういうことを我々は実際にやっているのだろうかとか。そういうことを考えています。
この面でいうと大きな一つのトピックというのは、法解釈が客観的なのかどうか、法の適用には必ずこうでなければならないという唯一の正解があるのかないのか、といったことですね。そもそも法とは何のためにあって、したがってどういう法律が良いのか。良い法律と悪い法律というのは、プロの中ではそれなりに見解が一致するところではあるのですが、実際そこで我々は何を考えているのか、我々がそこで直感的に考えている基準は何かとか、あるいはそもそも我々の直感は間違っていて、実は良い悪いはこういう風に決まるんだというようなことを哲学的に考えましょうというのが、法哲学の役目です。


Q:大屋先生の研究テーマについて教えていただけますか。


大きく二つあって、一つは先ほど申し上げた法解釈の客観性というテーマです。法解釈ということで我々は実際何をやっていて、それにどの程度の客観性があるかということ。もう一つは情報化社会の到来というのが背景にあって、分かりやすいところではさまざまな法律が次々に変わることを強いられている。典型的には刑法を見ればわかりますが「電子計算機使用詐欺罪」なんてのは電子計算機がない頃には存在しなかったわけです。古典的にはテレホンカードの偽造みたいなものが出てきたときに、それに対応する新しい犯罪類型というものを我々は考えないといけなくなってきた。最近では電子商取引であるとか、あるいは選挙にPCやネットワークの使用をどこまで許すかということが課題になってきている。このようにさまざまな変化を強いられているわけですが、これが大きく言うとどういう変化であってその中で今まで我々が使っていたような法律とか政治のシステムがどのように変わっていくかということを研究しています。


Q:情報化社会の到来に合せて法が変わっていかなければならないのかという問題は、専門家の間でも広く共有されていることなのでしょうか。


情報化社会論というくくりで考えると、つまり問題の方からみると結構多くの方々がやっておられて、例えば現代思想では東浩紀先生、社会学の大澤真幸先生とか北田暁大先生とか、そういう問題を扱ってらっしゃる。一方でそれが社会のレベルの問題ではなくて、それを動かしている具体的なルールとしての法の問題になると、具体的なトピックはみんなやっているわけですよ。例えば刑法学者は、今後新たな犯罪類型をどうやって取り締まるかを考えています。けれども法律というシステム全体に着目してそれがどう変わるかということをやっている人間はそう多くないと思いますね。


Q:研究に関係があるかないかは別としておいて、主要な関心事、あるいは最近の社会的なニュースとかのなかで面白そうだなと思っていることはなんでしょうか。


いろんなことが関係あるんですけど、情報化社会の到来ということの大きなポイントは、「国家」というものですね。それが一つの軸なんですが、その国家の力というのがかつて思われていたほど絶対的なものではなくなってきているということでしょう。これは経済的なグローバライゼーションとの関係も強いわけですが、お金と情報の行き来を国家がコントロールできなくなってきている。かつては、国家権力というのはリヴァイアサンであって、つまり人民すべてをひれ伏させることができる強大な実力の持ち主だったわけです。ところが、最近のところで言うとサブプライム問題に端を発する世界恐慌の危険というものが迫ってきていて、アメリカは大不況を引き起こさないために国内経済を救済するための国費投入ということを決めようとしました。ところがその枠組が、人民の代表であるところの下院で否決されてしまう。要するに国民はこんなものやりたくない、必要ないといって法案が否決されてしまう。国民の意思が国家を動かしたんだからそれで話が終わりかと思ったら、お前何考えてるんだと世界中から批判されてしまう。アメリカが原因を作ってはじまった恐慌で、そこで止まらなければ他の国がどんどん巻き添えになるのに、国民が納得しないからといって手を抜くなと言って周りの国家が批判するわけですよね。そしてアメリカ政府はこの法案をなんとかしてもう一回通そうとしました。ここでは、ある政府の決めたことというのが、その国家の中にすら絶対的な実力を持っていない。ひとつながりの国際社会の中のアクターとしてしかるべき役割を果たさないと、他の国々から批判を浴びて、その批判を受け入れざるを得ないという構造がある。しかもそれは、アメリカという世界最大のパワーを誇る国のやることですらそうだと。かつては国家がある国の領域のなかで絶対的な実力を持つ、その実力の裏付けは国民の合意である。国民が国を支持しているからそういうことになるので、民主的正統性があるからそのように国民を支配してもいいのだと考えられてきたわけですが、そういう力強い国家像が非常に揺らいでいるということは言えると思いますね。


Q:それはやはりさっきおっしゃられたようなグローバル経済、あとは情報の行き来というのが一番のファクターになっているのでしょうか。


そうだと思います。世界がいろんな面で実質的に繋がってしまっている。かつては例えば経済で市場というときには、一般的には国内市場のことを意味していて、その例外として貿易があったわけです。国内が市場であって、そこから出入りするものを貿易として別に勘定しましょうという枠組でやってきたのですが、もはやそんなことは言っていられない。世界のお金のマーケットというのは一つに繋がってしまって、ある市場の動向が他の世界中の市場に次々に波及していってしまう。もちろんそれを成り立たせているのは情報の自由なやりとりです。一番基底的なレベルであるモノや人もどんどん境界線が揺らいで動くようになっていますが、まだ実態としてのモノが動かないといけないところの流動性はそんなに高くない。それは国がコントロールできるからですよね。けれども人は動かせなくなくても、仕事は動かすことができる。つまりアウトソーシングで、たとえばコンピューター関係のカスタマーサービスの対応だけインドに投げる。インド人がインドで仕事してるんだけど、サービスの対象はアメリカですという状態になってきています。


Q:ありがとうございます。ではちょっとお答えづらい質問かと思いますが、大屋先生ご自身の研究の価値というのをどのように捉えられていらっしゃいますか。


まず法哲学とは法学部で一番金にならない学問だと私は言うんですけど、それはなぜかというと、私が見ている変動というのが、大きく言えばこう流れていくだろう、こういうふうに変わっていくだろうというもので、これはどれくらい経ったら出てくるか分からない。例えば私は情報化社会論の関係で、現在のような著作権制度というのは崩壊せざるを得ない、遠からず崩壊するだろうと言っているですが、この「遠からず」というのは世紀単位の話だと思うんですね。例えば100年は続かないだろうという話なんです。私の研究というのはそういう意味で、他の実体的なことを扱う人たちがやっていく研究の枠組、その奥にあるトレンドみたいなものを掴もうとしているので、直接的にそれが普通の人の役に立つかどうかというと、たぶんあまり役に立たないんです。でもまあ、そういう研究の方向みたいなものを探る役に立てばいいと思っています。


Q:その大きい動きを捉えられる際に、どういうものが一番のファクターになるのでしょうか。


簡単に答えるのは難しいのですが、「考え方」ですね。考え方の枠組みか、その背景にある理念、価値、そういったものを視ていると、単に表面的な利害関係の対立ではなくて、そもそも尊重してる価値とか世界の捉え方の違いが背景にあるというように気付くことがあります。具体的には「NIFTY-Serve事件」という、パソコン通信上での名誉毀損を巡る事件があったのですが、もちろん裁判になったわけですから、一番表面のレベルでは損害があったかどうか、その損害をいくらと評価すべきかという対立ですね。もちろん原告は一千万とか、被告はゼロだと主張するというような構造があります。しかし、私はこの事件の一番の重要性は、具体的な金額を巡る争い、つまり金額というものが重要な価値だと両方が認めた上でそれを争っていくというものではなくて、そもそもNIFTY-Serveというのがどういう場所なのか、それが開かれた言論の場なのか、顔見知りによるあるいは仲のいい人たちによるおしゃべりの場なのかということを巡る価値観の対立にあったと読み解こうとしています。特に法律の場合、民事裁判では必ず何らかの損害に対する賠償を求めるという形に構成しないと裁判にならないわけですから、本当は謝ってほしいと思っていても何らかの経済的被害を受けたという体裁にしないと普通は訴訟として成立しません。裁判というものが求める形式性という表面と、その奥にある本当の欲望、隠された考え方というのを注意して読まないといけないだろうと考えています。


Q:先生の研究テーマとして先ほど「解釈の客観性」そして「情報化社会における法」という二つを挙げていただきましたが、この二つの繋がりはどのように考えられているのでしょうか。


一つ目のテーマ「解釈の客観性」というのは、ウィトゲンシュタインの言語哲学を法解釈の問題に応用するというやつでして、そもそも分かる人間、興味を持ってくれる人間が法哲学者の中にさえ何人いるのかということを考えないといけない研究なんですね。実際この分野の主要業績というのは、日本では長いあいだ出ていない。ところが学者も勤め人ですから、ある程度人に分かりやすい研究もやっておかなければいけない。そこで当時関心のあった情報化社会の問題をサブテーマとして始めたというところです。
ただ研究生活に入って10年くらいたっているんですが、その二つが実は繋がってきているんではないかと思ってるんです。それは、解釈の客観性を巡る問題における私の結論というのは「客観性はない」ということなんですね。事前に決められたルールは我々の行動を制約できない。我々は盲目的に行動していて、基本的には何か問題になったときに後付けで正当化を考えているんだけれど、その後付けで正当化するというのが重要なところで、単に暴力で黙らせるのではなくて、こういう理由で僕の方が正しいでしょと言いあうことによって暴力的な衝突を回避する。そういうシステムとして法とか政治とかが作られたと考えるべきなんだという立場です。つまり、世界とか社会の秩序というのが神様に創られていてその通りにやればうまくいくというのではなく、我々が何とか作っていかなければならないものなんだと。トラブルにぶつかったときに、こっちの方がいい、あっちの方が正しいと言って競い合うことによって、なんとかこしらえてきたものに過ぎないという見方なんです。これはつまり、背景の世界が変わったら秩序も変わらないといけない、我々がこう思うというのを変えれば、変わってしまうはずだということを意味している。
この秩序の人工性、そこで人々の欲望のあり方に従って秩序がどんどん変化していくというのが実は一番端的に表れてきているのが、今であればインターネットのあり方だろう。たとえばインターネット上でどういう通信が可能かというのは、我々が参加しているネットのコミュニティーが決めてきたわけです。こういうルールで通信しましょうという秩序に従ってみんなが生きている、人工的な秩序です。その中で誰か勝手なことをやりだすやつがいて、しかしそれがすばらしいとみんなが思ったら、それは新しいサービスとしてインターネット上で定着し、存在を認められてしまう。例えばgoogleだって最初出てきたときは、なんだこんなものという人はたくさんいたわけです。つまり人間の目を通してない、他からリンクされたものは重要であろうという推定にもとづいて並び替える検索サービスが、人が見ているのに比べてよくなるはずがないと。でもgoogleは、こっちの方がいいんじゃないかと思ってやってみて、結局みんなそっちに乗ってしまった。そうするとgoogle的なサービスというのがインターネット上での非常に重要な一部として存在して、それが世界を作っていくようになる。情報化の問題を私が選んだ背景には、そういうものが見えていたのかもしれない。


Q:情報化社会については学部生のころから研究されていたとのことですが、その時のテーマはどのようなものだったのでしょうか。


まだ研究というよりは勉強を始めてたくらいですけれども。大学の法学部というのは勉強をするところですから(高校まではやってない学問ですから)、その法律の勉強をしながら、しかしこういうところに問題があるなと思って始めていたんです。当時扱ったのは、自主的なルール形成といったわりと古いインターネットの時代の話なんですが、我々が普段相手にしている秩序というのは国家が支えているものであって、国家の暴力というものによって支えられ制裁が行われることによって担保されているような秩序です。ところがインターネットには、そういうものがない。インターネット上で何をやったって国家が飛んでこないという状況があって、にもかかわらず古い時代のニュースグループの時代のインターネットにはある程度の秩序があって、秩序違反者への制裁が行われていた。となるとこの秩序を支えているものは何なのか。テクニカルタームで言えば、ある種の「自生的秩序」、おのずからできてくる秩序ということですが、その一形態ではないかと。参加者がみずから維持し、違反者に制裁を各自加えることによって維持されているコミュニティーみたいな、初期のインターネットの姿というのがまだあって、それが国家が支える秩序という外の法律の世界とそろそろ衝突しかけていたころですね。


Q:情報社会における法、自制的な秩序ですとか、例えばレッシグ『CODE』で示されているように「法」、「市場」、「規範」を今までの社会における支配のモードとして捉え、さらにもうひとつのモードとして「アーキテクチャ」をあげていて、そこに先生の話も接続されていくかなと思うのですが、この辺りに関してどうお考えでしょうか。


一つはインターネットのあり方をレッシグの議論は非常に良く捉えていて、古いインターネットというのは規範の世界なんですよね。自主的に形成された規範をみんなが守っているというような世界である。それがアーキテクチャ的な支配に変わっていってしまう。フリーソフトウェア運動のように、みんながインターネットの世界を良くしていくためにそれぞれ少しずつコントリビュートしてその結果よくなっていくという考え方から、マイクロソフトがバーンとWindowsのようなソフトを作ってしまい、それが我々の行動を規制してしまって、しかもしばしばそれは我々にとって快適なのでいいかと思ってしまう。そういう支配に変わってきた。そういう発達史みたいなもの、そのアーキテクチャルな支配が徹底していくことにどう立ち向かうかということを考え始めてしまうわけですが、それを考えていくことが実は古典的な法哲学の枠を外れているという批判がなくはない。社会の制約の形式として見るならば法と共通性もあるけれど、狭い意味の法とは関係ない問題を扱っているわけです。だからどちらかというと権力、規制の正統性という問題に一般化して考えようとしている。でも、法哲学というのはもともと権力行使の正統性に関わる学問なんですよ。なぜ国家が人々を支配するということが許されるのか。その観点から言えば、いま人々を支配する手段が狭い意味での法だけではなくなってきたときに、じゃあもっと広いものも見ましょうというのは法哲学の発展の仕方として当然じゃないかという気はします。

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ここまでで半分です

Q:次に今回のセミナーについて話を移していきたいんですけれど、ある人にとっての価値あるものが、他の人には受け入れがたいという状況が現在あると思います。この価値対立の調停をどう考えていくのか、というのが今回の「マックスバリュー」というテーマ設定につながってくるのですが、先生はこの現状をどう見ていらっしゃいますでしょうか。


この点については、実は従来の古典的な対立より問題はさらに深刻化しているというのが、一部の法哲学者がすでに言い出していることです。建築には詳しくありませんが、たとえば東京駅みたいなものは綺麗だから残したいという声があるとする。一方でモダニズム建築も建築史的に価値があるし美しさがあるんだから保存しようよ、という声があったとき、これに対して「いや、僕はロマン主義者だからモダニズムに美は認めないよ」という対立があったとします。これは美しいものは保護すべきだとか、建築史上価値のあるものは保護すべきだという議論はお互いに納得しているけれども、どれがその「美」にあてはまるものかという判断で対立するケースですね。

ところがより深刻になってくると、そもそもその「綺麗だから保存しよう」という意味がわからない。建築の価値は利便性だ、東京駅なんて建て替えてしまえばいいんだと言いはじめる人が出てくる。あるいは、建築の価値はその建築が建ったり壊されたりしたときに発生する建築事業の量で、それがないと僕の会社にお金が回らないんだよという人もいるだろう。ここでは、いいものだから保存しようとか、美しいものは評価されるに足るという、価値基準自体がすでに共有されていない。
それでもまだこのあたりであれば、金銭に換算できるような価値にまで落とせばまだ話ができる。たとえば建物の価値は利便性だ、それが生み出す富だという人がいたとして、でも東京駅の屋根を直せばこれだけ観光客が増えて儲かりますという言い方をすれば、その人も「じゃあ残そう」って言ってくれるかもしれない。説得の仕方として、共有できる価値があるよ、あなたの価値基準から言ってもプラスになるはずだよねということを説明してあげれば、彼は納得するだろうと思うんですね。しかし、「いや、建物は滅びこそ美しいんだ」ということを言いだす人が出てくるとどうか。いいものが残って誰もがそれを見ることができることこそ望ましいと思う人と、いいものは思い出だけだ、現実の建物はなくなっていくほうがいいんだと思う人とがどう共存可能なのかという問題があります。

つまり、価値の共通の尺度があるなかでそれぞれの行為選択の評価が異なるという対立から、そもそも何が良いのかという「価値の尺度」をめぐる対立というものに、世の中が複雑化しつつあると言えるだろうと思います。私の師匠である井上達夫(東京大学・法哲学)は「重層的多元化」という言い方をしましま。従来の多元化というのは、尺度として何がいいか悪いかは大方共有しつつ、何を評価するのかという具体的なモノの評価が違う。そういう多元的な評価が世界で競い合うのが望ましいよね、という考え方が多元主義と呼ばれてきたわけですが、少しきな臭い話をすると「痛いのは嫌でしょ、長生きしたいよね」と言う人に対して「いや、私は善く死ぬことがいいと思う」と言う人がいる。「私の宗教上の敵をなるべく多く巻き添えにして死ぬことが私にとっての人生の価値だ」という人がいるとすると、これはどう共存することができるか。

古典的にはトマス・ホッブズが、なぜ国家なんてものができるのかという議論を最終的にこの「死の恐怖」に還元してるんです。人間痛いのも嫌だ、死ぬのも嫌だ、それで国家がなければ「万人は万人にとって狼」であり、自然状態で延々と殺し合いをはじめてしまうことになって、みんないつ死ぬかわからないからそんなことは嫌だろうと。だからリヴァイアサンなる国家を立ち上げて、みんながそれに従うことによって殺されない―少なくとも国家を怖がってさえいればすむ社会を作っていこうじゃないか。これが社会契約なんだ、というのがホッブズの考えですね。ただこの前提は「みんな死ぬのが嫌だよね」っていうことなんです。この呼びかけに同意しない人をどうするのか、っていうのは非常に大きな問題で、実はホッブズもこれに気づいて指摘しているんですよ。

「vain glory」っていうんですが、「『死に花咲かしてやる』っていう人がいたら、どうしよう」って書いてあるんです(笑)。まあ結論的には「どうしようもない」という話になるんですが(笑)。「vain glory」ってしばしば「虚栄心」と訳されているんですが、これはあまり良くない訳で、「glory」なので「栄光」なんですよ。ただその栄光を実現するためには自分が死んでしまうような栄光。だから「死に花を咲かせる」っていう表現が非常に近いと思うんですが、そのような人は結局どうしようもない。簡単に死ねないように二重三重に取り囲んで弾圧しようと思うと、逆に喜んじゃうんですよ。「どれだけ派手にやるか」っていうことだけを考えているから。そういう人が混じってると社会契約が成立しないっていうことが当初から気づかれていた。それでも世俗化した先進国の中では、やっぱりほとんどの人間は痛いのは嫌だと思っているし死にたくないと思っている。そういう穏やかな価値観の共有された世界で、私たちは生きてきたと思うんです。ただ、またグローバライゼイションの問題になってくると思うんですが、それと必ずしも見方を共有しない、違う価値観を持っている人と接触するようになったときに、じゃあ我々はいったいどうやってこの対立を調停するのか、対立の調停の仕方自体が、対立してしまう。これが現代における一番の課題であり、価値をめぐる最も困難な問題だと思っています。


Q:ありがとうございます。ではこのような背景を踏まえた上で、どのような議論を展開していこうとお考えでしょうか。


今回の私のレクチャーのキーワードを挙げると、「自由と幸福」です。これは二つとも我々は「いいもの」だと思っている。つまり肯定的な価値なのでなるべく多いほうがいい、と考えているものですよね。古典的にはこの二つの価値は共に手を携えてやってくるとされています。つまり自由があれば人は自分の望むように自己決定することができるのだから、たとえば学食のメニューが二つしかないのに比べて十種類あればより自由な選択ができて、自分の好きなものが食べられてより幸福であると。特に19世紀の世界というのは自由な選択の幅を、あるいは自己決定の自由というものが保障される人をできるだけ増やそう、その範囲をできるだけ広げようというのを頑張って実現してきたわけです。その最も端的なものが参政権ですね。自分が幸せになれるような国家のあり方を選択できる権利を、万人に保障する。普通選挙を実現し、女性参政権を実現することによって完成したのが19世紀的な世界のシステムだと。ところが20世紀を超えて―私は口が悪いのでこう言いますが(笑)、「19世紀システムの成立と崩壊」の20世紀を超えてわれわれが気づいたのは、必ずしも自由は幸福を保証しないということです。

これはたとえば、法律の世界の話で言うならば、19世紀的な観念は契約自由であって、つまり一人一人の人間は自由で自己決定能力を持っている主体なのだから、自分にとって有利な契約であれば結ぶだろうし、不利な契約であれば結ばないだろうと考えます。各人は自分が何を望むかを最もよく把握しているはずなので、その契約の内容に国家がなるべく介入しないことが世界の幸福につながるのだ、より多くの主体のより大きな幸福につながるのだ、と考えてきたわけです。ところが、これを実際にやってみるとなかなかうまくいかない。一番最初に破綻したのが「労働法」という世界で、つまり労働者と資本家という交渉能力に大きな差がある状態で契約自由をやると、契約の内容は金持ちに有利にできてしまう。そこで国家が無理やり介入して、労働契約の内容を規律してしまうということがすでに1920年代に始まってしまった。その行き着いた先が1980年代の消費者保護法制という考えです。これはつまり消費者は契約がわからないということ。まあ実際問題、この間に一人一人の人間が結ぶ可能性のある契約っていうのがものすごく複雑になったんですよね。たとえば保険に加入するとものすごい量の約款がついてくる。あの中身を読んで内容がわかる消費者が日本に何人いるかというと、まあほとんどいないわけです。その結果として個人は判断できない。だからたとえば国家が個人のかわりに、約款の内容に規制を加えることによって、個人の幸福を保障してあげましょうという制度になってきてしまった。あるいは消費者契約法というのは、消費者にとって不利だと思われる条項は軒並み国家が無効にしてしまいますという制度ですね。

ここにもすでに、個人の自由やそれに基づく個人の判断能力を否定することが、実は個々人の幸福に繋がるという考え方が見えている。そしてもちろん問題は、我々がそれを歓迎しているということです。消費者契約法を導入してくれと言ったのは消費者です。人民自身が「僕たちは自由なんかいりません、その代わりに幸福をください」と言い始めてしまった。著書(『自由とは何か』)にも書いたことですが、これはインターネット上で普及する多くのサービスにも共通する考え方であって、要するに最初からまずい結果になりそうなことは、できないんです。たとえばWindows Vistaであれば、セキュリティ的に問題があるような行動をすると警告がくるわけです。個人が不幸になるかもしれない選択肢をあらかじめ排除しておくことが―それは個人から自由を剥奪することをも意味するわけですが―個人の幸福を保障するのだ、という考え方が非常に浸透してきているし、われわれは多くの場合でそれを問題だとは思わない。むしろ歓迎している。果たして自由と幸福との関係性、それが調和的だと考えていた19世紀の観念というものがどうなっているのか。このままもう無理だったんだと思って、幸せな不自由に突入していくのか、それとも我々はどこかで自由と幸福との関係を取り戻そうとするのだろうか。あるいはまた別の考え方があるのか。そういったことを考えたいと思います。


Q:ありがとうございます。先生はご著書の中で「自由な個人」という概念を一度脇において考え直してみませんか、というご提案をされていたと思います。もし「価値」という概念を脇に置いたとき、どのような言葉が代替物として挙がると思われますか。


「価値」っていう言葉のもっとも卑近な言い換えは「お金」ですよね。それは非常に卑近な言い換えなんだけれども、しかしそれを強引にやってしまうのが法律の世界の特徴です。まあ民事訴訟っていうのは基本的に、あらゆる損害を金銭という形で清算してしまうわけですね。先ほども言いましたが、本音は謝って欲しいということだったとしてもそれを金銭賠償として主張しないといけなかったりします。「わたしの心は傷ついたんです」ということを主張したいんだとしても「じゃあそれはいくら分だと思いますか」という形で整理しないと請求にならない。これは非常に狭い価値観で、金銭というものを尺度にして価値は測れるという換算基準をさまざまな分野に押し付けてしまっているわけですが、我々としてはそうせざるを得ない事情があるわけです。

それはなぜかというと、我々が神様じゃないからだと思うんです。たとえば交通事故で死亡者が出たとします。そうすると死亡者の遺族は損害賠償請求をします。本当はお金を返してもらっても仕方がない。いちばん望んでいるのは生きてかえってくることですから。もしそれが可能ならば我々はぜひそうしたいところなんだけれども、できない。一方で、「ここに絶対的な不可能性があり、それを無視して解決を押しつける法律は暴力的だ」と言う人がいて、そういう人が自分で納得している分には勝手なんですけど、だからって放っておけば遺族は餓えて死ぬわけですよ。我々としては有限の時間と有限の資源、有限の情報と有限の判断能力の範囲内でいかに世界から悲惨を減らすかということを考えたら、無理やりひとつの価値尺度、つまり「金銭」というものを当てはめて、それでもう済んだことにしろと言うしかない。まあ道義的にとか心理的にはいろいろ残るのですが、少なくとも法律上は加害者のほうも金銭賠償を払えば、終わったということにできる。要するに清算は済んだと言い張れる。それによって歴史を先に進める。こういうのが、法律の世界の考え方なんだろうなと思います。

ただ「金銭に換算していいんだよね」という合意が薄れつつあるのが現在の「重層的多元化」の世界ですが、もしそれが失われたとすると社会が動かなくなってしまう。我々は法律を通じてきわめて暴力的に価値を換算してしまうわけですが、しかしその暴力なしに世界がいかにあり得るかを考えてみると、やはりその世界は動かないと思うんですね。だから私としては、価値を金銭に換算するというのは非常に暴力的で、いいかげんで、一面的で、いろんなものを落としてしまっているけれど、これよりいいものは今のところないんじゃないかと考えます。もちろんそれが換算方式として絶対的だと主張するつもりはないとしても、じゃあこれを上回るものがあるのかと問うと、やっぱりこれを選択せざるを得ないのではないか。私が著書のなかで考えた「個人」も同じようなものです。これが本当にいい考え方かというと、いろいろ疑わしい。でも他にやりようがあるかといわれると、今のところ思い浮かばない。もちろん世界に責任を持たない人は何を言っていてもいいわけですが。法学部の人間の一つの特徴というのは「社会に対する責任感があることだ」と、嶋津格(しまづいたる・千葉大学・法哲学者)が言っていますが、そういう責任を感じる限りこういう暴力的なことをやらざるを得ないのではないかというのが、今のところの私の考えです。


Q:最近ではたとえば「環境」「セキュリティ」への意識が高まっています。結局はお金に換算されているのかもしれませんが、CO2排出量や環境へどれだけ負荷をかけていないかが企業の優位性をはかるものさしとして使われるようにも見受けられます。こうした個別のファクターがお金に取って代わるような可能性はあるのでしょうか。


部分的な領域について、ある価値が金銭よりも支配的になるということはあるだろうし、あるべきだと思います。たとえば建築の価値をすべて労働生産性によって測られても困るというのはありますよね。建築のファカルティでは美であるとか、歴史であるとかが価値として広く証明されているというのもあり得る話だと思うし、あったほうがいいだろうと思います。ただ「これは素晴らしい建築なんだ」と言う人たちの価値が、その部分社会を超えた広範囲な流通性を持っているかというと疑問なわけですよね。「なんて素晴らしい建築だ」ってフンデルトヴァッサーを持ってこられても私のような人間にはなんだかよく分からない(笑)。そのときに「お前らがわからなくてもこれは美なんだよ」と強制的な決済はできない。それに対して最終的に金銭評価をしてしまう法というものが国家に結びついているメリットは、要するに強制決済性なんですよ。最終的にはとにかく金の問題として価値観を決済してしまって、それには国家の暴力機構が執行手段としてついてくるわけですよね。国家が判決で「いくら払え」といったら、これは最終的には強制執行がかけられてしまう。だから金銭評価というのはベストな価値基準ではなくて、「ラストリゾート」なんです。「最後にそれがある」というものだと思います。


Q:ありがとうございます。では五回のレクチャーのペース配分を教えていただけますか。


最初の二回くらいは、19世紀的な(自由と幸福という)観念とはどういうものであって、それがどのような社会制度と結びついていたのかということに使わないといけないだろうから(笑)、それをします。そしてそこから両者が現在どう揺らぎつつあるのかということへ移っていきます。典型的にはアマゾンの「おすすめ」なんかがあると思います。わたしもあれは便利なのでよく使いますが(笑)、あれは要するに「幸福な支配」ですよね。幸福なんだけど私の自由はあんまりない。そういう具体的なものを取り上げながら、どのように両者の関係がずれてきて、「不幸な自由」というものを選択する人も多分いるんだろうけど、現代的にもっとも問題なのは「幸福な不自由」だということをお話するのにまた二回くらい。じゃあ今後どうするのかどうなるのか、みたいなことをあと一回くらいで考えるのかなと思っています。


Q:受講生に求められることはなんでしょうか


まあ率直に言うと行き先は私にもわかりません(笑)。こういう動きがあるだろう、というのを私は見ていますが、人々が実際にどう動くのかというのはこれから決まることだろうし、わからない。だからそこについて問いを共有してほしいなと思っています。

Q:本日はいろいろなお話、どうもありがとうございました。

ありがとうございました。 


大屋雄裕(おおやたけひろ)
名古屋大学大学院法学研究科准教授。1974年生ま れ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科助手を経て現職。
専攻、法 哲学。情報技術の発展が法・政治システムに与える影響を哲学的に分析すること を最近の課題としている。
著書に『法解釈の言語哲学:クリプキから根元的規約 主義へ』(勁草書房)、『自由とは何か:監視社会と「個人」の消滅』(ちくま 新書)、共著に『岩波講座憲法1』(岩波書店)、『公共性の法哲学』(ナカニ シヤ)、『情報とメディアの倫理』(ナカニシヤ)などがある。

Interviewed by RAD/Sakakibara

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