11月8日:大屋雄裕先生レクチャー1日目

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11月8日、大屋雄裕先生(法哲学)のレクチャー1日目。

先生のテーマは「自由か個人か―配慮される社会と私たちの選択
第一回目のタイトルは「自由と幸福の19世紀システム」でした。
こちらでこの回のレクチャー映像をちょっとだけ公開しております

凝ったスライドショー、丁寧なレジュメ、やさしく毒のある言い回し、この三点セットのおかげで法哲学ズブの素人(わたくしですが)にもわかりやすい講義でした。目下レクチャー映像を鋭意編集中です

参加人数は10余名。専門家の方、専門じゃない方、テレビ局の方、新聞記者の方とバラエティに富んだフロアとなり、先生生徒がひとつの机を囲みながらの議論が実現しました。講義と質疑応答が同じ時間配分(むしろ後者のほうが長かったかも)だったのが印象的。今後ますます双方向的なコミュニケーションの場が出来上がっていきそうです。

○では以下さっくりとした概略です。

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自己決定できる自由な「個人」なんていまやフィクションであり、自由であればあるほど幸福という考え方には無理がある。実際人々は自己決定を妨害するとも言えるアマゾンのレコメンド機能を喜んで使うだろうし、自由を制限する監視カメラをもっと増やせと叫んだりする。じゃあ私たちは自由と幸福をこの先どう考えたらいいのだろうか、ということを考える前に、自由と幸福が無理なく一致していたらしい時代を見てみよう。ということで今回はその頃の話。


○以下は内容に踏み込んだ概略です。
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近代リベラリズムの大前提である「自由と幸福の一致」に関し、J.S.ミルが「多数者の専政」に介入されない自由を尊重していたことをさらいつつ、アイザィア・バーリンの述べた二つの自由、つまり「消極的自由―国家に干渉されない自由」と「積極的自由―自己決定の延長としての参政権」という自由の二区分を見ていきます。後者における「自己統治原理」、つまり治者と被治者が一致しているというセオリーには構造的な少数者の問題(黒人、障害者など)が実は存在しており、全人民が自己統治の主体になる、という考え方はフィクションでしかありません。ここに19世紀システム、つまり自由と幸福の「幸福な」一致、の裂け目を見ます。ここで前提とされていた「自己決定できる自律した個人」に対し、被後見人や未成年のような「自己決定できない非=個人」は排除されますが、これは本人の保護を目的としている限りにおいて必ずしも「幸福でない」わけではない。こうした自由と幸福との「ほころび」がなぜ、どのように起きてきたのかが次回のポイントです。

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いや、それは違うぞというつっこみ大歓迎です。コメントください。
講義風景
懇親会

さてさて、大屋先生の次回講義は
12月20日、タイトルは「監視とアーキテクチュアルな支配
13:30スタートです。

なお、QueryCruise次回の講義は11月14日、20:00から
五十嵐太郎先生の第一回目です。タイトルは
メディアをおこすこと 『エディフィカーレ』から『建築雑誌』へ


乞うご期待!


RAD/S

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