12月14日:南後由和先生レクチャー3回目

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12月14日は南後先生レクチャー3回目でした。
「都市・建築における無名性の価値、有名性の価値」
と題された南後先生のレクチャーも

第一回:
「都市空間をめぐるシチュアシオニストの実践/建築論としてのアンリ・ルフェーブル」参照
第二回:
「コンスタントのニューバビロンの射程」参照

と続いてきました。そして今回のタイトルがこちら。
「グラフィティ文化のフィールドワーク」

グラフィティとは落書きのこと。でも現在グラフィティと言うと街中のいたるところにスプレーで描かれたアレとかコレとかが頭に浮かんでくることでしょう。今日のお話はまさにその「アレとかコレ」をめぐるものでした。なお、「アレとかコレ」には具体的にこんな種類があります。

・数秒でシャシャっと自らの名前を記す「タグ」
・1、2色を使って数分で文字を書き上げる「スローアップ」
・ガッツリとした絵になっている「ピース」

でも「描かない人」にとってはこの種類もあまり意識にのぼらず、どんな人がどんな場所に何を描いているのかもたいしたことではありません。あくまでも「落書き」「いたずら書き」として眉をひそめられ、規制の対象となる「グラフィティ」、これを軸にしながら、「描く人」が「描かない人」とどのように違う都市体験をしているのかが今回のお話のテーマでした。 
グラフィティ小史

70年代のNYから生まれたグラフィティは、60年代の五月革命や学生運動を背景に、当時の貧困層による既存の社会秩序への抵抗としてありました。他方で西海岸においてグラフィティはヒップホップやサーフィン、スケートボード文化と交わりながら独自の二極展開を見せていきます。日本におけるグラフィティは上記二者のなかでもとりわけ後者の色が濃く、90年代以降桜木町を聖地として映画『Wild Style』による影響を受けながら、そしてファッション雑誌『Fine』やインディマガジンをその情報発信の場としながら、根付いていきます。ただここで注意しなければならないのは、日本におけるグラフィティは一部の人の思惑とは裏腹に、必ずしも抵抗のメッセージに限られたものではなかったこと、そしてこれらの行為を犯罪として描く新聞やテレビの存在も同時に生まれてきたことです。


どこに描いてるのか

彼らにとって都市はキャンバスであり、「描けるか否か」こそが彼らにとっての都市体験を特徴づけるポイントである言えます。具体的には、シャッター、CD・レコード・楽器店、暗い場所、建物の壁面などなど。「いかに見えるか」に価値基準を置き、あえて車窓等から見やすい位置を狙ったり、ボウリング場の屋上のピン(のオブジェ)のように、どうやって描いたのかわからないような場所に描いたりと、独自の評価軸が生まれました。

どんなひとが描いてるのか

彼らの年齢層は比較的幅広く、必ずしも若者に限られるものではありません。彼らは1人描くときもあれば、グループになっても描きます。1人が複数のグループを掛け持ちすることがあることからも推測できる通り、その結束はそれほど強くありません。彼らの情報交換はクラブでの直接的なコミュニケーションから雑誌やネットを介した間接的なものまで多岐にわたりますが、「タグネーム」で呼び合う彼らにとってはそのどれもが比較的匿名性の高いものである点にその特徴が見られます。いわば彼らは「地理的ないし経済的基盤」を共有せず、多層的なメディアの中に生まれる匿名的な親密空間を生きていると言うことができるでしょう。

何を描いているのか

描く人は自らの名前や作品を増殖させていこうとします。ある場所に誰かの名前があれば挨拶のようにして自らの名前を記してみたり、表現行為として自らの絵(ピース)を描いてみたりと、その内実は様々です。気に入らないピースの上に自らのピースを描く(ゴーイング・オーヴァー)その応酬が彼らにとっての「抗争」の形ですが、物理的接触を欠き、都市というキャンバスを介した「抗争」のツールとしても「描かれるもの」は用いられます。こうした非同期的(非対面的)コミュニケーションとしての側面のほかに、「いつ捕まるのか」というスリルの中で身を削るようにグラフィティを描くというその身体性も重要な点だといえるでしょう。

なぜ描くのか

他者との関係を間接的に持ちながら自己を表明しようとすること、偏執的で継続的なタグ付けによって自己の連続性を保とうとすること、そして自らの名前が消される不安に突き動かされるように描いていること、こうした点に特徴があります。先に見たとおりグラフィティは非対面的コミュニケーションのツールとなりますが、それは必ずしも身体性の欠如を意味しているのではなく、「匿名性を介した「つながり」の虚無感を代補するがごとく、自らの身体性を都市に刻み込んでいる」のではないでしょうか。
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多層的なメディアに生まれる匿名的な親密圏を生き、都市という物理的な空間に残すタグやピースといった要素によって「描かない人」には見えづらいネットワークを生きる彼ら。「描く人」そして「描かれるモノ」をめぐって生起するいくつかの「境界線」を確認しながら、レクチャーは終わりました。

なお、その後のディスカッションでは1人1問方式を試みてみました。実際にグラフィティを描いていた方も参加者の中にいらっしゃったので当時の逸話も盛り込んでもらいながら問いと応答が進んでいきました。個人的に興味深かったご意見は、グラフィティを描く人にとって「描いていいところ/描くべきでないところ」に違いができるとしたら、それを各国間で比較してみるとそれぞれの「公私観」みたいなものがうかがえるのではないか、というもの。1人1問方式では満遍なく皆さんに発言が行き渡るので多様なご意見がうかがえます。それぞれの方のご質問、ご提案からさらなる興味が引きずり出される、ピリピリした緊張感にあふれるテーブルだったと思います。


と、こんなところで今回のレポートはおしまい。
次回南後先生のレクチャーは1月18日。
宿題(ソシオロゴス2008 No.32南後先生論文を読んで批評)をお忘れなく!
なおQueryCruiseの次回は12月20日。大屋先生の第二回目です。

レクチャー自体は終わってますので、レポのアップをお待ちください。

おたのしみに


RAD/S

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