March 2009 Archives
突然ですが、PAPERDESK は4月号からガラリと変わります。
具体的にはこのように変わります。
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1)通しテーマを掲げる:今回は「リサーチのリサーチ」を予定
2)4月~9月の各号ではそれぞれにサブテーマを掲げる
3)10月号として「大PAPERDESK」を出版(増量版)
4)「大PAPERDESK」では4月~9月号の再構成+αをお届けします
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しかしその代償として出版が遅れております。
そこで、すでに予定を若干変更いたしまして、
PAPERDESKは4、5月合併号を、5月初旬に出版いたします。
そうなんだ、程度で頭の片隅にとどめておいていただけると
嬉しいです。
○は済んだもの、△は今準備中、「なし」はウェブ上であたれない、ということです。
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Volume 1 川勝○
Volume 2 榊原○
Volume 3 住吉山(要約○ 訳△)
Volume 4 近藤○
Volume 5 榊原○
Volume 6 川勝○
Volume 7 榊原○
Volume 8 なし
Volume 9 なし
Volume 10 近藤△
Volume 11 榊原△
Power FAQ
なぜヴォリューム5巻はイメージの分野を取り扱うのでしょうか?
権力は常にイメージに巻き込まれ、それらなしでは考えることさえできないが、権力なるものはそれらイメージのどこにも見られない。決してだ。権力は特定の行動というよりもむしろ行為への潜在力であるため、権力それ自体は不可視なのだ。このつかみどころのない性格はその力の源である。権力を学ぶためには異なった見方が必要だ―より微妙な兆しをさがし、より広いイメージ領野のモザイクを精査するという具合に。もっとも強大な力は表面上些細な効果を通して稼動するのである。
なぜ初老の男性のイメージが多く登場するのですか?
この号は権力の初期設定に注目する。挑まれ得る、挑まれねばならない、そして挑まれている設定に。
Coming up(Editorial)
author: Volume
At most, these issues are paid lip-service with vague proclamations. Seldom are these proclamations connected to a sound analysis of the power structures determining architecture's fading role but also its explosive potential.
建築に関する声明の漠然さ
これらの号は、せいぜい漠然とした声明を伴う口先だけのお世辞を言われているにすぎない。これらの声明のなかで、建築の衰退する役割を規定するがその爆発的な潜在能力も規定する、権力構造の深い分析と関係づけられているものはほとんどない。
The consequence is an architecture that is either a subservient instrument for political strategies or the self-appointed therapist of its tormented self. An architecture that has become pointless in its actions, lost in its awareness.
建築の行動の無意味化
その結末はというと、建築は政治的戦略のための従属する手段、または自己苦悩の自称セラピストのどちらかであるということになる。振る舞いが無意味になった建築は、意識を失った。
何もしないってのはそれほど悪いことじゃない
オレ・ボウマン Ole Bouman
成功はポートフォリオの充実にかかっている。プロジェクトの規模、名声のあるクライアント、有名性の氾濫、そしてナルシスティックで、とりつかれたような、そして芝居じみた、とどまるところを知らないパーソナリティーにかかっていることも忘れてはいけない。抑制のない野心は有名建築事務所や有名建築学校の証明であり、そこでは「家に帰ること」がギブアップに等しい。クライアントのプログラムに従った要求を満たすだけの骨折り仕事から逃れたいと願うものにとって、机の下で寝るなどということはよくあることである。完全に正常だ。もしあなたが思考する創造的な建築家になりたいのならば、あなたが何かをなし得るだけではダメで、それをなさねばならない。仕事、仕事、仕事。それをモットーに。
建築のための新たなヴォリューム(論説)
オレ・バウマン
Ole Bouman
あらゆる書き物は空間を構成する(これは確かに比喩的な関係ではあるが、非-物質的な過程のいかなる描写も比喩的であるという限りにおいてそうなのである。思考は飛翔し、愛はためらいがちで、憎悪は燃え、そして書き物は空間を形づくる)。
こうした事実を考えると、私は建築家が使用するのとおなじ道具を使用している。私は私の小説のために空間的なプランを引く。これらの線描は構成のプロセスに必要不可欠のものだ。私はまた私の素材(つまり言葉)の寛容さや度量を テストし、それから私の空間的なプランをこれらのプラグマティックな制限に適うよう調整するのである。私は使用のために建てる。私は私の読者を見越して自 らのテクストを組み立てるのだ。私が書いた空間へ彼らが住むことによって、その意味と機能は永続的に変化するだろう。私はしばしばクライアントの委託で仕 事をする。今もそうだ。「編集者」というクライアントは私に圧力をかけ、彼らの要求を伝えさせようとする。そして私はそうする。建築家の社会的スキル―こ れはある種の「建築的知識」だろうか―は、私が書くときに採用されるというわけだ。
すでに約1ヶ月を経ようとしたこの時期にしれっと更新させていただきます。
次回大屋先生レクチャーは3月14日となっております。
「自由か個人か―配慮される社会と私たちの選択」
をテーマとした大屋先生のレクチャーもすでに3回を終えました。
♯1「自由と幸福の19世紀システム」(参照)
♯2「監視とアーキテクチュアルな支配」(参照)
#3「先取られる欲望と善意の監視」(参照)
と続きまして、今回のタイトルがこちら
「20世紀と自己決定する個人」
唐突ですが、新学期の季節となってまいりました。新中学生、新高校生の方々にとって「制服がダサくて垢抜けないからモテない」のはひとつの問題です。一面では制服によって個性が消され、服装を選ぶという自由が排除されている、とも取ることができます。制服を無くそうという運動がこうした流れで起こることも無理はありません。でも他方で、その制服を着て「垢抜けず」「モテない」のは「私」のせいではないとも言える。あくまでも制服が悪いと言い張ればいいのです。ところが、もし制服が廃止され、服装を毎日「自由に」選び続けなければならなくなると、そのモテない「責任」は「私」に降りかかってくるのです。それでなくても、毎日服装を考えないといけないことは、単純に言って面倒でしょう。一時期起こった制服廃止論が結局制服の全廃を実現できなかったのは、まさにこの「自由から逃走したい」という人々の欲望から来ていたと考えられるのです。
第1回目で見たように、19世紀において自由は幸福と一致していた、と考えられていました。そして自らの幸福についてもっとも正しく判断することができるものこそが個人であると信じられていた。ところが、上に述べた制服の例でも示唆されるように、19世紀から遠く離れ、その「個人」のあり方がちょっと変わってきているのではないか、というお話が今回レクチャーのスタートです。
では以下レクチャー内容をさっくり振り返っていきましょう。


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