Volume#3 The Spin of Architecture and the Architecture of Spin. (Editorial)
建築の転回と転回の建築
英国下院議員ジョージ・ガロウェイが、石油・食糧交換計画への彼の不正関与の可能性を調査していた米国上院のパネルの前に引き出されたとき、彼は共和党の大多数に対して注目すべき痛烈な非難をなす。彼らは自身の保守政策に基づき世界規模で事物のオーダーをせわしなく変化させようとしていた。彼は上院のパネルを「あらゆるスモークスクリーンの母」と呼ぶ。2003年イラク侵攻へと至る例の「嘘のつめあわせ」から注意をそらすために使われた、というわけだ。
祖国ロンドンに戻ったとき、彼は自身の賛同者たちから真実のチャンピオンとして迎えられた。イギリスでもそうだが、根拠なき理由から戦争を実行しようとし、国際法を蹂躙し、誠実さと正直さという倫理的スタンダードに楯つこうとする米国政権に向かって彼は果敢にも声を上げたわけだ。ハロウェイはジョン・ケリーが大統領キャンペーンの時にちょくちょく示唆していたにもかかわらず、ことあるごとに発言を避けようとした内容を敢えて主張した。曰く、保守的なアメリカは嘘に基づく幸福を追い求めている、と。政治的な溝はもはや左と右、急進派と保守派との間にあるのではなく、むしろ嘘と誠との間にある。より深いレベルで、権力闘争は現実を規定し、それらの規定に世界規模の重要性を持つ決定の基礎を据えんとする者に関するものだ。
当然のことながらこれは新たな闘争ではない。権力を支配することで真実を操作したりコントロールしたりすることは古代トロイの時代からある。多くの主唱者はその正当性を誤った偽称に負わせ、中にはそれで世界のリーダーになる者もいた。とはいえ、現在の状態は神秘化の初期形態とは異なっており、とりわけ世界規模で起こり、そうなり得るというところで異なっている。小集団のなかで不正をなし、計算高い狡猾さによって自らの利権を守ろうとする程度のことではもはやない。我らが21世紀の「メディア支配」ではグローバルに釣り合ったドラマが必要だ—あらゆるテレビ局のまえで、あらゆる新聞において、そして数えきれないほどのウェブサイトで演じられうるものが。古代のメタファーで言うところの真実の神殿はいつわりの杖によって朽ちるのでも、陰謀やプロパガンダの重さの下で泥沼へと沈んでいくわけでもない。今まで見たどれよりも立派な、あらたな神殿が打ち立てられる。あまりに安定していて、魅力的で、あまりに多くの機能を収容しているから、ある瞬間にそれが嘘からなっているのかどうかという問いが浮上するほどだ。真実はそのものを疑うことからはじまる。操作する者は救世主となる。彼らの神話はもはや意識にまで貫き通ることのない現実よりも、より重要なものとなる。カール・ローブとその保存革命の建築家という地位を例にとってみよう。時代は政治家がその背後というよりもむしろメディア担当アドバイザーを保護しなければならないところまで来た。
注目すべきことに、建築はこの逆転に関するあらゆるメタファーのなかでも最も重要なものとなっている。建築は誠実さと正直さという近代的な特権として長く見られてきた。今号のヴォリュームは建築的行為として創造される神話や、建築家としてその行為なす加担者の多様な例を提示する。でもこれはその地位が低くなっているということでは決してない。対照的に、建築的な肩書きを「なんでも知ってる人」—戦争、コンピュータプログラム、セラピー、あなたのまつげを本当にカールしてくれるマスカラなどなどについても—へ贈ることで、その像にさらなる敬意をあたえる。建築家という語は気品さの指標だ。よく知られている通り、それは常に高貴なものとして見られたい者の間でもてはやされる。このように建築は言葉遊びに惑わされ、その言葉遊びが数十億の運命を規定する。関心は住居ではなく、地政学的な建築というゲームの中で自らが置かれる位置だ。
建築家はこれをどう思うだろうか。もちろん彼らはこの神話学的暴力にノータッチというわけにはいかない。もし建築をレトリカルにかすめとっていくことからどうにかして恩恵を受けたいのなら、建築家は自らの神話という建築からはじめなければならない。ややもすればこれは最も重要な仕事になるのでは!建築がそれ自身を超える、ということもまた、あらゆる建築的作業に先立つストーリーの創造、とりわけあらゆる建築的な見え方をしのいでそびえる塔の創造を、意味している。現場にある建築的リアリティは重要ではなく、むしろ飛躍する建築的ストーリーこそが重要だ。これを理解するデザイナーは次第に増えており、彼らは制作に加えて自らの仕事が持つ効果を発展させることにより多くのエネルギーを注いでいる。示唆のレベルを決して超えたりすることのない、ひとつながりの終わりなきイメージを彼らは生み出すのだ。それらイメージは正しい集団に提示され、彼らがなすべきことに関する独特なストーリーを組み立てる。このストーリーがなければ、よい環境をつくりだすキュレーターとしての建築家の立場はますますあやふやなものとなるだろう。だから彼/彼女がより頻繁に求められることはあまりなく、むしろ神話のほうが—そう、神話だ!—これまでよりもずっと求められている。神話を創造できる者はだれであれ、突如として、そして絶対的に不可欠な存在となる。その能力さえあれば権力による不誠実なまやかしへと建築を犠牲として捧げることだってできる、と信じる者にとって、権力による公正なまやかし(あるいは対抗権力によるそれと同じくらいの疑わしさ)が建築の神話をうまく利用できるかどうかを確かめることに興味があるのだろう。もしアラステア・キャンプベルが「新たな仕事」をつくり、建築的知性を証明しようと試みるならば、津波によって荒廃したインド洋岸の再領土化を分析したナオミ・クラインの話と重なってくるかもしれない。もしシルヴィオ・べルシュコーニがスタジオやスタジアムへと彼の帝国支配を行き渡らせようとするなら、遅れてきた世慣れなマルラ・ルチカを、戦争の代償として死んで行った人々のストーリーを伝えるため、サルドリ市のストリートにいる人々にわざわざコンタクトを取った者として思い出すこともできるだろう。彼らは空間を整え、権力を分析する。そしてついに彼らは選択するのだ。
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