Volume#11 The Architecture of Destruction

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「破壊の建築」
オレ・ボウマン

ケヴィン・サイツという名前を耳にしたことがあるだろうか。彼はとあるブログを運営するひとりのリポーターであり、現在ではYahoo!と共同し、世界の「ホット・ゾーン」での彼の経験を私たちに伝えてくれている。数十の紛争地域で彼は一体型ヴィデオカメラを装備し、人々に彼ら自身の物語を語らせることで「その紛争が現場ではどのように感じられるのか」をたった独りで取材しようとしている。たとえ高いプロ意識のような覆いやグローバルな読者といった虚飾のもとにあっても、状況はこれほど多くの人々を巻き込むぞっとするようなものであるのかということを感じられるだろう。

それが報道範囲の問題であろうが、実際量の問題であろうが、紛争がますます不可避的なものであると考えられるような時代に私たちが生きているということは 明らかである。それが当然のものとされているのだ。2001年、ワールドトレードセンターへの攻撃をもってひとつの時代が始まった。そこでは21世紀にお ける暴力が必ずしも人々に向けられるわけではなく、もちろんそうではあるのだが、それよりもむしろ、建物に加えられるのだと私たちは実感しはじめるのだ。 敵の評価システムの象徴として(サマーラのモスクのように)それらは攻撃され、また爆撃され、あらゆる大量虐殺が今までになした以上に強烈な怒り、恐れ、 そして鬱積した憤りを引き起こす。また、ただ敵と戦うことのみならず、敵や、敵をかくまっているかもしれない人々の住居やインフラを狙うことが争いの新た な潮流となった。要するにテロリストの襲撃や先制攻撃の理由がより曖昧になる一方で、報復の度合いはより高くなり、それに付随する苦痛は今までよりも広範 囲にわたるようになった。そしてより重要なことに、破壊はもはや盲目的な憤怒の放出ではなく、大方几帳面な計算くらいのものになりつつある。破壊さえまた 別の建築となるのだ。

この歴史的な事実を強調することによって、破壊されたものの創作者である人々、つまり建築家がどのように反応するかがよりいっそう興味深いものとなる。極 めて注目すべきは、グローバルな職業的コミュニティの中でそれに関する言説が潜在的には存在していないように見えることだ。世界中の都市でアンビルドが劇 的に増加するなか、ほとんどの建築家は沈黙を保ったままだ。これはたとえ戦争国の市民として、また都市組織のタブラ・ラサのうえに建設することを依頼され たモダニズムの闘士として、あるいは強度の軽視や不始末あるいはディヴェロッパーの不義によって影響を受けたプロとして、彼らが直接的に巻き込まれたとき でも然りなのである。たとえ破壊を分析し公共の議論へと参加するための機会が、あるいは修繕や再建という建設的な行為をなすための機会が正しく彼らの前に あっても、それにまつわる全ての建築契約は付随的な干渉のレベルに留まったままである。

この受動性の理由を一つ私に説明させてほしい。建築は常に建設と同一視されてきた。それは生のもろさとそれをいかにして乗り越えるのかというところで人々 の最も深い感覚にアピールするのだ。建築は保護のためにそこにあり、外-側の世界からのシェルターを提供する。文学においても、神学においても、政治にお いても、あるいは哲学においても、それは積極性、向上への意思に関係づけられ、復興と、望みとに関係づけられてきた。そして仮に人々がまるで何も知らない 世界に向け、運命によって人類にインスピレーションを与えようというユートピア的な姿勢のなかでゼロから思考し始めることができたとしても、建築はより良 い世界のイメージを提供しうる最初のものとなる。建築はまさに夢にかたちを与えようとしているのであり、功利主義的理想を目指している。よりよい世界が作 られるべきであると。単純にいって建築に絶望を伝えさせることは難しいのである。

しかしたとえ私たちが朽ちることのない純真さに対するこの歴史的な合理的解釈を受け入れるとしても、それはその純真さが正当化されるということを意味しな い。よく言われるように、希望と進歩の容器としての建築という観念は包囲されている。これがリアリズムの時代だ。あるいは危険な、狂信的な、破壊的な力と して人的状況を認める時代だ。少なくとも西洋において、今日人々は彼らが熱望するものを達成するよりも、むしろ彼らが持っているものを守りがちである。そ れはまたグローバリゼーションが対抗すべきものとしてではなく、共同すべき動かし得ない力として広く受け入れられるというような歴史的傾向をもった時代で もある。要するに、比喩的に言えばそれは協同的視座の新たな体系や一般的な楽天主義のモニュメントを打ち建てる時代ではなく、恐怖に対して保護する時代、 そしてプライベートな関心を用立てる時代なのである。もし戦争が事実ではなければ、精神や感情においてそれは計画となっていた。

例えばこれは実に忌むべきもの、受け入れがたいものとして長い間見られていたある一定の世界観への関心が復興した時代でもある。まったく急に、暴力は実行 されるべきこととして予定表に戻って来た。それは悪の表現としてではなく、問題解決のための時に有益な道具として。戦争屋、社会的ダーウィニストそして職 業的カサンドラたちは、武装蜂起することの清潔な価値を主張するために立ち上がりつつある。豊かな社会の安全な避難所に生きるほとんどの人々はそれを報道 の問題だとし、関わるにはあまりにも遠いものとして事態を覆ってしまったり、あるいは新たな全体主義の魅力にどういうわけか惹かれてしまっているように思 われる。グローバルヴィレッジの縁にいるその他の人々はこれら新たな形での侵略の帰結をどうにかしなければならないのだ。しかしどちらの側であれ、ますま す暴力はひとつの価値とまではいかなくとも常態になりつつある。

お望みとあらば、新たなリアリズムの積極的効果は予定表にのったより明白な視座あるいは侵略者のイデオロギーとなる。事実、建築はしばしばそれ自身を広く 抑圧や破壊の犯罪道具であることを明らかにする。アフガニスタン、イラク、あるいはレバノンに目を向けよ。現代の暴力は曲解的で抽象的で非人道的なのだ。 それは今まで見たこともないくらいの頻度で建物やコミュニティを破壊する。その結果、一般的な人々はサバイバル術を間に合わせにこさえなければならない し、それを発展させなければならない。では、虐待されている人々のために立ち上がるというのはいかなることを意味するのだろうか?建築もその連続体の側に 位置づけられるだろうか、そしてもし可能なら、どのようにしてそれが可能なのだろうか?

おそらく最も大胆なそして同時に不気味な立場とは、戦略を立てる建築家が、それを詐称し、あざ笑い、そして誤用する方法を見つけることによって破壊に対抗しようとすることであるわけだが、究極的には、それは破壊を避けるための一助となるのかもしれない。

クラスターボムが落とされようとするとき、私たちには紛争後の新たな地形に対する自らの知恵を集積する必要がある。自然が私たちの住居を襲う時、私たちに はこの世界に居住し自然と共同する新たな方法が必要だ。そして犯罪や退廃が生命を奪い世界を離ればなれにするとき、私たちには公共領域の新たな感覚が必要 だ。暴力が常態になるとき、私たちには建築の現状を犯すことが必要なのである。

これこそ今号のヴォリュームが目指すところである。この宇宙の支配者がもはや公共の場に来ることがないとき、公共の場は彼らの方に行くだろう。私たちは今 号を8000部刷った。もし私たちの流通システムがカブール、キガリ、パレスティナ、ベイルート、ラマラーにいるあなたに届かないのであれば、あるいそこ にいて今号のヴォリュームを必要とする人をあなたが知っていれば、コピーを届けてくれるようオフィスに連絡をよこしてほしい。

参照:
ケヴィン・サイツ「ホットゾーン」


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下訳:榊原


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