Volume#16 Planning Paradise
楽園を計画する
エージェン・オースターマン
「重要な建築的介入を始めるために必要な条件は、その実践に関わる一団(政府、地方自治体、個人投資家、ディベロッパー、建設会社、プランナー、デザイナー、そして建築家)との協議によってプロジェクトを規定することである。」「建築的介入と変容」に関する最近の国際会議におけるこの前置きは、今日における諸過程を考える「包括的な」方法に典型的なものである。プランやポリシーはもはや少数の専門家によって規定されたり実施されたりするものではない。それらはすべてのステークホルダー(利害関係者:現在的にポピュラーなもうひとつの概念だ)とともに発展させられる。すべての?たいていは介入の主体と被害者となる使用者/消費者/居住者は、ここから著しく抜け落ちている。
戦後の、大規模な、トップダウンの計画組織が多様な政治システムのなかでだんだんと機能不全になりはじめたとき、「市場」がその解決を許された。一定の繁栄レベルから推測して、需要は供給を導くだろうということになったのだ。あらゆるひとが、必要とするものを満足させ、政治は弱者、セキュリティ、そして(国際的な)競争を保護することだけに専念すべきだとされた。社会はつくられる必要もなかったし、もはやそんなことはできはしないのだ。事実、市民は自らが何を望むかを自分たちで決めた。これは建築家の役割と立場に関して重要な帰結を持つ。アルド・ヴァン・アイクはかつて、屋根を架けてあげることでひとの手助けをすることこそ建築家の役割だとしたことがある。(彼は付け加える「それがなかなか難しい」と。)それまで建築家がなすことはユーザーが望むかもしれないものを提案するだけということになっていたのだが、現在ヴァン・アイクの説明はますますありそうなことになりつつある。住宅建設において個人クライアントに割り当てられるものが次第に増していることは、最近まで少なくともオランダにおいては大きく欠かれていた、デザイナーとユーザーとの直接的な関係を生み出している。さらに、ヨーロッパやアメリカのそこここに市民の影響のラディカルなかたちが経験されている。その規模は小さいものだが、そこでは都市発展のための予算が、近隣、地区、あるいは村人そのものによって決定されている。(地方自治体の)政府が地域的に決定されたものを手助けするようなことはあまりない。
これは次のようなことを意味している。つまり未来を提示できることを建築家は予期せずに求められる、ということを。商品論理の消費社会のなかで多く失われたように思われる能力だ。近隣はサービスパケットに付け加えるものとして、デイケアセンターかカフェかのどちらかを選択できるが、複合的な工場や廃れた住宅の再構築にとって、ちょっとした手助けはなくてはならないものである。
世界的な規模において、これらは完全に周縁的な問題である。世界の人口の多くは、彼ら自身の住居や日常環境をつくり続けるだろう。その他はほとんどもっぱら住居を与えられるのだ。例年の中国の都市生産はこの種の微妙なアレンジを考慮に入れていない。しかしながら、周縁というのは無意味ということではない。何になり得、何になるべきかを決定する際に、政府とその人口との間での新たなバランスを求めることは、強く求められている未来のモデルを生み出す。これは、オランダや西ヨーロッパといった楽園を計画する段においてのみそうだというわけではない。ポスト紛争地域で局地的な人口に再発展を許すことは、未来の紛争を避けることにつながっていく。そして現在権威が支配しているこれらの地域において、ますます増える政治的な自律と、自身の望むものと欲求とを知るという市民の個人的責任とともに増大する繁栄は、異なった関係性を創り出すことを強いるだろう。徹底したソーシャル・エンジニアリングは不興を買うかもしれず(ある意味、ひとつの実践としてそれはいまだ議題に上っている)、市場はあらゆる問題を解決するわけではない。さらなる課題はその関係性をより長く継続させる。でもそれがまた別の主題となるのだ。
下訳/榊原
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