rep|「YUASA RYOSUKE / nothing and something」afternote
第5回「rep- radlab exhibition project」では、湯浅良介による「nothing and something」を紹介した。展示では独特の形をした模型が中心的になっていたのだが、彼は「オリジナリティ」のある形を目指しているわけでもなく、ここに並べられた形をそのまま表現として見せているわけでもないようだ。彼の話を聞いていると、その関心はある形が他者の想像力にどう働きかけるのかにこそある。ただ、これはファンシーな形をつくって別の人にその意味の解釈を委ねる、ということではない。むしろ彼は「他者の想像力」を自らの設計過程へとどうにか組み込もうとしているように思われるのだ。この過程についてこの場で少し考えてみたい。
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さて、彼は自らの設計にあらかじめ三つの他者を含み込んでいる。「オブジェ職人」「名付け親」「ドラフトマン」、この三者によってその行程が進んでいくとした。今回「オブジェ職人」を引き受けた湯浅は、そのオブジェつまり形へ「名付け親」に名前を付けてもらう。名前が与えられればその形は内部の想定を呼ぶ。そこで彼は、そのありうべき「答え」のひとつを「ドラフトマン」にすくいとってもらう。ありえたかもしれないまた別の名前があればその内部もまた別のものになるはずで、それは形もまた然り。だからここに提示されているのは、他者の想像力を推進力にする決定群の「とある」重なりくらいでしかない。いきなり形へ晒される観者は、ありえたかもしれないまた別の他者だと言えるだろうか。
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さて、彼は自らの設計にあらかじめ三つの他者を含み込んでいる。「オブジェ職人」「名付け親」「ドラフトマン」、この三者によってその行程が進んでいくとした。今回「オブジェ職人」を引き受けた湯浅は、そのオブジェつまり形へ「名付け親」に名前を付けてもらう。名前が与えられればその形は内部の想定を呼ぶ。そこで彼は、そのありうべき「答え」のひとつを「ドラフトマン」にすくいとってもらう。ありえたかもしれないまた別の名前があればその内部もまた別のものになるはずで、それは形もまた然り。だからここに提示されているのは、他者の想像力を推進力にする決定群の「とある」重なりくらいでしかない。いきなり形へ晒される観者は、ありえたかもしれないまた別の他者だと言えるだろうか。
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湯浅は、あらゆる行為を建築家「ひとり」が行うとされる設計手法に疑問を持ち、「建築家」という名称を避けようとする。「湯浅良介」という今回この展示を代表することとなったひとつの名前は、設計過程の中に組み込まれた固有名ではなく、「このような進め方」を考えた者として提示されるべきだった。そういう意味で、これはある固有性を持った三人による「共同作業」とも異なっている。彼の進め方は、建築家一人によるものでもなく、いわゆる共同によるものでもない。他者の想像力、と言うと想定されるかもしれない「関わるすべての人が建築家」といった類いのモデルでもおそらくない。
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当たり前のことだが、建築には多くの主体が関与する。設計者ひとりをとっても、その決定のプロセスには数えきれないほどの人が関与し、お金を出す人や、どのような役回りなのかよく分からない人などなども関わり、誰がどの段階でどの程度決定に参与しているのかはおそらく誰にも分からない。このように、分からないうちに決まっていく建物がある。責任の所在がまだ分かりやすそうな住宅にしても、決めているのは誰なのかを考え始めるとはっきりとした答えは出しづらい。これを都市という広がりで見てみると、その風景を生み出しているものは「なんとなく輪郭が与えられているけれどもはっきりとは分からない有象無象の決定」の束であったりする。
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そう考えると、湯浅の考えた設計方法は建築家による能動的な行為としての設計というよりも、建物が生み出される際の決定のあり方に言及しているように感じられる。普段から起こっているこの事実に対して疑義を呈するために、彼はそれをいわば戯画化しているように見えるのだ。ではこの戯画化によって変わってくるものは何か。それはおそらくコミュニケーションの方法である。彼にとって建築はいくつかの要となる決定によって、そして、そこに関与する人間の想像力を推進力にして、成立する。彼がその「いくつか」をはっきりと三つで足りるだろうと言い切ってしまったことが、意識していようがいまいが、どことなく皮肉っぽくて興味深い。また、これは大幅に深読みだろうが、今回形からはじめたことが、あらかじめある世界の起伏へと着目しようとする現在的な姿勢を反映しているようもである。
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ある形が事後的に名指され、内部が決められる。これは普段から起こっていることであり、建築家という固有性なしに空間は成立している。それは、あるひとりの個人によってではなく、可視化しづらいいくつかの決定によって成立する。彼の設計はこれを戯画化し、善かれ悪かれ、「他者の想像力」をその推進力とした。「何でも無いもの nothing」が「誰かや何かにとってなくてはならない存在 something」になる瞬間、それははっきりといえば何らかの決定の瞬間だと思うのだ。建築をめぐる様々な想像力が反応する、その度ごとの瞬間に建築をかけようとすること。ゆえに彼の(考えた進め方で生起する)建築はnothingでもありsomethingでもある。湯浅の設計の魅力は、想像力というウェットな考えを取り込もうとしていながらも、どこかドライで風刺を利かせているようなところにあると考えている。
( RAD / S )
湯浅は、あらゆる行為を建築家「ひとり」が行うとされる設計手法に疑問を持ち、「建築家」という名称を避けようとする。「湯浅良介」という今回この展示を代表することとなったひとつの名前は、設計過程の中に組み込まれた固有名ではなく、「このような進め方」を考えた者として提示されるべきだった。そういう意味で、これはある固有性を持った三人による「共同作業」とも異なっている。彼の進め方は、建築家一人によるものでもなく、いわゆる共同によるものでもない。他者の想像力、と言うと想定されるかもしれない「関わるすべての人が建築家」といった類いのモデルでもおそらくない。
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当たり前のことだが、建築には多くの主体が関与する。設計者ひとりをとっても、その決定のプロセスには数えきれないほどの人が関与し、お金を出す人や、どのような役回りなのかよく分からない人などなども関わり、誰がどの段階でどの程度決定に参与しているのかはおそらく誰にも分からない。このように、分からないうちに決まっていく建物がある。責任の所在がまだ分かりやすそうな住宅にしても、決めているのは誰なのかを考え始めるとはっきりとした答えは出しづらい。これを都市という広がりで見てみると、その風景を生み出しているものは「なんとなく輪郭が与えられているけれどもはっきりとは分からない有象無象の決定」の束であったりする。
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そう考えると、湯浅の考えた設計方法は建築家による能動的な行為としての設計というよりも、建物が生み出される際の決定のあり方に言及しているように感じられる。普段から起こっているこの事実に対して疑義を呈するために、彼はそれをいわば戯画化しているように見えるのだ。ではこの戯画化によって変わってくるものは何か。それはおそらくコミュニケーションの方法である。彼にとって建築はいくつかの要となる決定によって、そして、そこに関与する人間の想像力を推進力にして、成立する。彼がその「いくつか」をはっきりと三つで足りるだろうと言い切ってしまったことが、意識していようがいまいが、どことなく皮肉っぽくて興味深い。また、これは大幅に深読みだろうが、今回形からはじめたことが、あらかじめある世界の起伏へと着目しようとする現在的な姿勢を反映しているようもである。
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ある形が事後的に名指され、内部が決められる。これは普段から起こっていることであり、建築家という固有性なしに空間は成立している。それは、あるひとりの個人によってではなく、可視化しづらいいくつかの決定によって成立する。彼の設計はこれを戯画化し、善かれ悪かれ、「他者の想像力」をその推進力とした。「何でも無いもの nothing」が「誰かや何かにとってなくてはならない存在 something」になる瞬間、それははっきりといえば何らかの決定の瞬間だと思うのだ。建築をめぐる様々な想像力が反応する、その度ごとの瞬間に建築をかけようとすること。ゆえに彼の(考えた進め方で生起する)建築はnothingでもありsomethingでもある。湯浅の設計の魅力は、想像力というウェットな考えを取り込もうとしていながらも、どこかドライで風刺を利かせているようなところにあると考えている。
( RAD / S )
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