Volume#24 Neuropolitics
ニューロポリティックス
C-Lab
1960年代のあからさまな政治的あり方をとる自己表現とは異なって、LSDへの関心を表明することは、既存の信条との整合性を必ずしも明確にすることなく、各々の個人的な政治を示唆し得る。LSDの服用は、社会的慣習やそれに対応する精神状態にも、抵抗の規範や政治的な反抗にも規定されないものとして、人の主観性と身体とに対するひとつの権利を確立することなのだ。それは自律性の表明—ティモシー・レアリーが言うところの、自分の脳をコントロールせんとする欲望—だったのだ。LSD使用の政治的場面は、統御への服従に対する有効な拒絶にある。つまり仕事場、核家族、教育機関、あるいは軍隊といった様々な規制に従属しない精神的な生を実験的に追求することにあった。レアリー流に言うとLSDというのは精神と社会的秩序との根本的に異なった関係を生み出すプロセスの「再プログラム」手段だったのだ。
レアリーはこの関係性を「ニューロポリティックス」と呼ぶ。この語は以下のような彼の考えを言い表している。曰く、政治的問題は脳化学に基礎を置く集団心理学的問題に従って解明され得る、と。この化学を変化させることは政治的関係性を変えるための第一歩であった。LSDの使用はイデオロギー的な抵抗とは異なった形式のそれであり、これまでのような政治運動を意図的に避ける。レアリーはこれを「社会ゲーム」のまた別の形としてしか見ておらず、エスタブリッシュメントにとってのオルタナティヴを提供するにはあまりにも権威主義的だと考えていた。唯一のオルタナティヴはというと、政治的変化の外的表現へと至らざるをえない内的変容のプロセスだ。レアリーはこのように書いている。同僚の心理学提唱者アラン・ワッツにとって自己の内的活動は本質的にゲリラ的なものあった、と。彼はワッツの仕事を「神経システムの政治 —「外の」政治と同じくらい複雑で同じくらい重要な」と言い表している。ワッツの仕事に対するレアリーの評価は「幻覚剤の使用を型破りな政治として仮定する」というものであり、そこでは主観性の再プログラミングは政治活動の前提条件になっていた。
C-Lab
1960年代のあからさまな政治的あり方をとる自己表現とは異なって、LSDへの関心を表明することは、既存の信条との整合性を必ずしも明確にすることなく、各々の個人的な政治を示唆し得る。LSDの服用は、社会的慣習やそれに対応する精神状態にも、抵抗の規範や政治的な反抗にも規定されないものとして、人の主観性と身体とに対するひとつの権利を確立することなのだ。それは自律性の表明—ティモシー・レアリーが言うところの、自分の脳をコントロールせんとする欲望—だったのだ。LSD使用の政治的場面は、統御への服従に対する有効な拒絶にある。つまり仕事場、核家族、教育機関、あるいは軍隊といった様々な規制に従属しない精神的な生を実験的に追求することにあった。レアリー流に言うとLSDというのは精神と社会的秩序との根本的に異なった関係を生み出すプロセスの「再プログラム」手段だったのだ。
レアリーはこの関係性を「ニューロポリティックス」と呼ぶ。この語は以下のような彼の考えを言い表している。曰く、政治的問題は脳化学に基礎を置く集団心理学的問題に従って解明され得る、と。この化学を変化させることは政治的関係性を変えるための第一歩であった。LSDの使用はイデオロギー的な抵抗とは異なった形式のそれであり、これまでのような政治運動を意図的に避ける。レアリーはこれを「社会ゲーム」のまた別の形としてしか見ておらず、エスタブリッシュメントにとってのオルタナティヴを提供するにはあまりにも権威主義的だと考えていた。唯一のオルタナティヴはというと、政治的変化の外的表現へと至らざるをえない内的変容のプロセスだ。レアリーはこのように書いている。同僚の心理学提唱者アラン・ワッツにとって自己の内的活動は本質的にゲリラ的なものあった、と。彼はワッツの仕事を「神経システムの政治 —「外の」政治と同じくらい複雑で同じくらい重要な」と言い表している。ワッツの仕事に対するレアリーの評価は「幻覚剤の使用を型破りな政治として仮定する」というものであり、そこでは主観性の再プログラミングは政治活動の前提条件になっていた。
不可欠なものとされたこれらの再プログラミングは、蔓延し続ける主観性の管理や、第二次世界大戦に続く数十年の経済再編によって影響を受けた社会性を語る。パオロ・ヴィルノの概観通り、労働者の精神上またコミュニケーション上の許容量は、創造性や協調行動に基づく経済に比べて、新たな価値を前提とする。雇われる者の精神は、新たな種類の労働の出現(今日私たちが「クリエイティヴ」と呼んでいるものを考えてみよう)を通して生産的なものに変えられる。企業管理の拡張や、それに伴う生産性の支配的様態としてのコミュニケーションの誕生も然り。レアリーはLSDを、こうした新たな経済的ロジックによって行われるマインドコントロールに対する対抗手段として、そしてあまねく生が潜在的には労働としてコード化されてしまうシステムにおける社会的諸関係のルーティン化に対する対抗手段として、理解していた。
LSDは主体から偏った考えを振り払う手段であり、精神を身体のコントロールセンターとする道具化に対して化学的に抵抗する手段であった。アラン・ワッツにとって、心身の二重性は幻覚剤を通して緩められうるコントロールメカニズムとして理解される。著作『The Joyous Cosmology(喜びに満ちた宇宙論)』において、ワッツは西洋の思考に心身の二重性が生まれたのは、知的存在の自己統御を描写しようとする試みの結果だと説明する。彼にとって、幻覚剤は思考のパタンを変化させ、確立された信条や政治的アジェンダによる精神の秩序化に対抗しうる経験や認識の新たな可能性を導入することによって、知性を優位化することに抵抗することだった。LSDは意識の神経化学を改変する方法であり、主体の自律性を確立するために心身間の関係を再度擦り合せる方法でもあった。
権力のゲームから撤退すること、レアリーの言葉で言えば「ドロップアウトする」ことは、心身に対する外的な統御を拒絶することであり、権威の陰謀 —「エスタブリッシュメント」の陰謀のみならず、ラディカルだとされる政治運動のそれも— からの意図的な隔離を成立させることだ。政治的な方向性はどうあれ、あらゆる権威は抑圧的だとされている。レアリーによって選択された「信頼できる哲学者」と彼が呼ぶ人格は、「真面目な知的議論という慣習への固執を通じて自らの立ち位置を正当化する」の拒否によって権威にからめとられることを回避する、自己意識的努力のことだった。レアリーのジョーク好みは専門家としての彼の立場を損なおうとするものだとも読める。自身の権威を疑問に付してしまおう、と。
権力に対するレアリーの不信は、幻覚剤の使用を自己ルールを表明したり、神経化学の調整を通して社会的コントロールの影響を緩めようとする、彼の視点と一致する。セクシュアリティだとか、スピリチュアルのオルタナティヴだとか、明らかにタブーの自己探究であると同時に、LSDはひとつのカウンターカルチャー的な抵抗なのだ。おおっぴらには政治的でない計算されたこの享楽主義は、新たな支配システム下で行われる生の秩序化に対立する反逆行為なのである。
下訳/さかきばら
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