Volume#22 Publishing Practices

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出版の実践
マイケル・クーボ


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ここには、10のケーススタディについて、1910年から2010年までそれらが与えた影響とその後の生がグラフィックタイムラインにまとめられている。それぞれの出版物に関して、このタイムラインは「ビフォーアフター」を見せてくれる。ここで言う「ビフォー」とは、書籍のコンセプトやデザインに対する影響、同じ(あるいは異なった)書き手によるそれ以前の出版物、そして以前の出版物に見る他のフォーマット、モックアップ、そして主要なイメージソースのことであり、「アフター」というのは、同じ著者によってその後に出版されたもの、(しばしば長い時間をかけて書籍の役割が変化していく結果として)異なった目的のために書籍内容を再検討したり再出版したりすること、そして/あるいは同じ素材を後の仕事に使い回すことを指す。それぞれの出版物は、書籍の問題を通して、特定の影響を生み出すために、これら主要な資源や影響を凝縮し加工する仲介手段としてふるまうのである。


前世紀を通じてなされてきた建築の実践を考えたとき、建築家による出版は外せない。建築がそれのみにおいて自身の言説を生み出すように、書籍の言説もしばしば建築家によって、(自らの)プロジェクトが成立し、受容され、そして理解される関係空間を枠づけるために使用されてきた。先の世紀に最も目立った建築家は多産の出版者でもあったわけだ。著者、雑誌やジャーナルの編集者、はたまた出版プロデューサーのような人やその他流通チャンネルにいる人いろいろといるが、その出版形式としてはモノグラフ、マニフェスト、歴史、パンフレット、台本、そしてカタログなどがある。こうした建築家の中にはデザインプロセスそれ自体を、編集やキュレーションのひとつとしてとらえる人もいる。いくつかの事例は、建築的領域の枠内で行われたそれ以後の実践を伝える他の編集的実践、例えば、ジャーナリズム、スクリプトライティング、そしてフィルムメイキングにおける過去の背景によって支えられている。その分野的なアジェンダは、実践に直接インパクトを与えるだろう学問形態を生み出すと目される—関係分野において歴史家として訓練されてきた—有能な批評家によっても影響を与えられてきた。


建築家も批評家も同じように、書籍をその分野が抱える在庫の中にある戦略的ツールとして見ており、建築生産の伝統的なあり方が強いる制約から自由な効果を生み出し得るものとしてとらえてきた。出版と建てることとの特定の連携は、建築的実践の批判的二重形態として、相補関係にあるような働きをするらせん状態として活用されてきた。しかし実際のところ、刺激的(かつ、ある事例では意図的)な差異が明らかになっている。単に書籍を実践のための「ガイド」 —指導や分析、あるいはコメントする書籍もある。究極的に建物の生産へと向かう書籍のことをここでは指している— として見るのではない。最も優れた建築家や批評家は、出版と建てることとの戦略的相違をよく理解しており、パラレルではあるが異なった操作の推論的なあり方として利用する。こうした歴史において、出版は実践のオルタナティヴな形として、もっと一般的に「建築的だ」と理解されるような他の生産形態よりも「すばやいもの」として現れる。
 

「出版の実践」プロジェクトは、有効な手段としての建築に関する出版の歴史や影響を、建築家や批評家によって過去の世紀に生み出された書籍の調査を通じてたどっている。ケーススタディでは、影響が大きかった10冊の建築書それぞれの起源と相互比較、そして「その後に生み出されたもの」を示している。それぞれは特定の時代の建築生産を、そしてその生産者に対する書籍の役割と働きといった固有の観念を現している。出版を通して20世紀建築のストーリーを詳しく語るのみならず、こうしたケーススタディは建築書が持つ特権的なジャンルの改変と批評ともなる。そのジャンルとは、マニフェスト、モノグラフ、そして歴史だ。
 

たいてい、マニフェストはガイドという伝統的な考えに一番近いものとして見られている。定義からして議論を呼ぶものではあるが、実践へ投影される理論のアウトラインを描いているかに見えるし、特定の建築生産のあり方を正当化するか伝えるかしているように見える。20世紀建築におけるマニフェストのプロトタイプとして、ル・コルビュジエ『建築をめざして』(1923)と前世紀にわたり行われてきたその形式に対する意識的な反転や改訂のシリーズにはじまり、「穏やかな」マニフェストから —ロバート・ヴェンチューリ『建築の多様性と対立性』(1966)— 「回顧的な」マニフェスト—レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』(1978)にいたるまで系統立っている。ここでも提示されている関連ジャンルとしては、「マニフェストとしての都市」とでも呼びうるようなものだ。この形式は1970年代に生まれ、学術的な歴史と理論的論考といった伝統的な形式の間にある。それは、現在の建築的、都市的な実践を再考するためのマニフェストを構築するために特定の都市状況の描写を使う —都市の働きを説明し、その歴史を慎重に語り直すことで、建築家に対する識別を行い彼らへの提示をなす。その基礎的な例はレイナー・バンハム『ロサンゼルス』(1971)、ロバート・ベンチューリ、デニス・スコット=ブラウン、そしてスティーヴン・アイゼナウワー『ラスヴェガス』(1972)そして —もういちど— 『錯乱のニューヨーク』、このどれもが既存の(コルビュジエ的な)前例に対する新しい形式の初期の一部であり、あきらかにその前例の再構築でもある。
 

ざっと見たとおり、こうした建築家にとってマニフェストは単なるガイドに貶められるものではない。たとえそれが戦略的な観点からの効果を見越した上で意図的に議論を呼ぶようにしてあるにせよ、実践に従属したり、あるいはそこにのみ向けられるものではない。むしろマニフェストは、受け入れられ理解さるべき他の形の建築生産のための文脈を作り出そうとするものである —それはちょうど、書くことと出版することという(マニフェストのような)実践が回りまわって受け入れられるような推論的文脈を、建てること(しばしば同一の作者による)が生み出すように。どちらも単に他者の実証でも、他者のためのガイドでも、ない。


20世紀建築書における第二の特権的な形はモノグラフだ。それは作品の集まりを、実践の中で組み立てられたアジェンダのワンセットへと統合しようとすることであり、理論的で議論を呼ぶ一連のステイトメントを統合することによってそのアジェンダを構築するマニフェストとは対照的である。形式としてのモノグラフは最初期のル・コルビュジエの例によって影響を与えられている。1929年から1965年にかけ8巻組で出版された、網羅的な「全作品集」である。そのジャンルに続く諸改訂は無数にある。マニフェストを語った後に、理論を通して「建築的発見が起こる」ことを立証するプロジェクトも含まれる(『建築の多様性と対立性』や、あまり想起されることも少ないが『ラスヴェガス』の初版。『錯乱のニューヨーク』だと手法はフィクショナルであって、錯乱状態に反復されている)。書くこと、描くこと、そして建てること(描くこととしての建てること、書くこととしての描くこと、建てることとしての書くこと、などと平行して)のプロセスを思想的建築物ととらえモノグラフへ翻案したり、建築そのものの形へと融合させたピーター・アイゼンマン『カードの家』(1987)。そしてレム・コールハースとブルース・マウによる衝撃的な一冊『S, M, L, XL』(1995)、このモノグラフとマニフェストとの見境ない融合は、書籍の新たなジャンルとも量塊的な新しいフォーマットともなり、新たな形式の引き金となったのだった。


ここで取り扱う最後の書籍ジャンルは、議論を呼ぶような歴史、そして動いている歴史だ。議論を呼ぶような歴史は、過去を再構築しようとし —建築やプロジェクトの「カノン」を新たに位置づけようとし— 、現在における特定の作品のあり方が受け取られ正当化されるような文脈を提示しようとする。事例としては、建築における近代運動の公的な歴史を提示し(あるいはそれとしてとらえられるようにし)ようとしたギーディオン『空間、時間、建築』(1941)が持つ一般化への野心から、より親密な(そして確かによりつつましい)情報源からの個人的なスクラップブックというようなアプローチをとった、アリソン&ピーター・スミッソン『モダンアーキテクチャーの英雄時代』(1965)まで幅広い。


ガイドについて語ろうとするとき、私たちはこうしたカノンとなった書籍について語る必要があるのだろうか? どうやって語彙を規定しよう? 慣習的な議論(典型的には、保護されるべき何ものかとしてのカノンへ投資する人々による議論)はこう来る。ある特定の作品がカノンとして識別されること、これは分野としての建築という考えと密接に関連している、と。識別可能なカノンを持ち、それを名付けるという事実 —作品にカノンとしてラベリングをし得るということ— は、他ならぬひとつの分野「建築」という考えの中心であり、そのために周到に規定されている(例えばそれは、他の実践の単なる部分集合じゃないということ)。つまり、もし建築が分野を意識して存在しているのならば、それはカノンを持っているはずだ。こうした定式において、分野は単にそのカノンを生み出すだけではない。同時にこう言うことも出来る。カノンがその分野を構成しているのだと。この議論のさらなる帰結はこんな考えになるだろうか。つまり、書籍は単に建築家のような人にだけ意識されるものではない、と。その排他的な役割に照らして言えば、ある人がカノンを知らなければ、その人は建築家ではない、となる。というわけで、カノンとなった書籍は単にガイドであることに貶められるだけではない(もちろんそのように働きはするだろうが)。分野そのものの構成部分でありその一組なのである。
 

これが極端な、時代遅れの断言に聞こえるかもしれないにせよ、カノン性という考えは、事後的に作品に割り当てられた単に恣意的な称号であるどころか、少なくとも前世紀の間に世に出されてきた建築書の生産を条件付けてきた。分野という考えが有効性を持とうが持つまいが、あるいはどんなメディア形態が、一時的な/永続的な建築の実践において/の周りで生み出され/循環するにせよ、書籍の機敏性や持続性は、この —書籍の、かつ、自らの— カノン性を打ち立てようと試みる建築家にとって特別なフォーマットになるわけだ。時代遅れな考えどころの話じゃない。この問題は今日最も新しく最も小回りがきくとされる形のメディア、例えばブログだとかウェブサイトだとかを考えるときにも再び現れるものだろう。書籍という特権的な形態を採用することによって、自身がカノン性を持つこと —建築的言説のカノン的なあり方に関与し、自身もカノンとなること— への意欲はいまだに浮上するのである。
 

分野について —それが含むあらゆる境界線や排除とともに— 語るのではなく、もし建築を「領域」として語るならば、そしてその実践形態のひとつであり、働きとしては建物の生産に勝るとも劣らないものとしての出版について語るならば、どうだろうか? この領域において、出版も建てることという実践も、等しく建築における働きの推論的なモードの可能性を生み出すのに必要なものだと見られるだろう。(もしいまだこの言葉を使うとすれば)カノン化した書籍はそのとき、実践の他の推論的なモードに比して、その推論的操作がグラフィックな対象 —フォーマット、レイアウト、イメージ、そして単語、その注意深く慎重な構成— として書籍の全体性に最も明快に現れるだろう。このように規定されたカノン化した作品のリストは、最もうまく稼働している作品を示すことになるだろう。その一部分が特定の時代における建築という領域 —言説、生産、教育、そして宣伝— を通してとらえられるとき、諸作品は共通の知識、あるいは特定の瞬間にその領域の枠内で取引される共通通貨、つまりそうした文脈で定期的に見つけられるべきもの、とされるであろう。カノン化したものというこの定義は故に、質や価値の割当てというよりは、作品の有益さが持つ実践的な機能なのである。
 

こうした影響の問題へと至るには、この領域の枠内でなされきた建築書の受容と影響とを学ぶ必要がある。大抵そのアジェンダや意図された役割とはまったく異なったものとなる。有効な実践としての(そして実践する者にとっての戦略的役割として)出版を学ぶことと平行して、「出版の実践」の後半部では、150を超える実践者、教育者、そして学生を巻き込み、その出版の時期から現在に至るまで、建築の訓練を受けている者への出版のインパクトを測定する。そこでなされた調査に対する反応やデータグラフィックは、建築における書籍の有益性やその働きに関する問いへと至る。一方で、調査に参加した者が最も多く挙げた書籍 —『S, M, L, XL』や『錯乱のニューヨーク』や『建築の多様性と対立性』や『ラスヴェガス』そして『建築をめざして』(既に選択された10のケーススタディのなかの5つ)— は、こうした作品の影響を支持している。他方で、このリスト化は異なった年齢、場所、そして教育時期や回答者の現在的に行っている実践へと、1970年代から現在にいたるまで、貫かれている。驚くべきことに、こうした書籍がその出版時期あたりで影響のピークにあった、とか、特定の時期にピークを迎えた、という例はない。実際、最近の学生のリストにも一貫して認められており、そうした出版物が現在にいたるまで持続的に影響を与えていることをこのことは示している。たとえ建築や書籍の生産や流通にラディカルな変化があったにせよ、その他の出現があったにせよ、書籍はデジタル時代におけるメディア形態に匹敵するのだ。
 

この年代記最後の部分で、「『S, M, L, XL』はカノン的書籍の最後であり、決定的な一冊なのか?」という問題をこの調査は浮き彫りにした。生産の新たなモード、建築家の向上する文化的地位、そして建築的出版の実践に対するグローバリゼーションの最初のインパクトと、増えつつある理論の影響とが合流する瞬間に起こるドラマティックな現れを伴い —しかしますます分裂するそれぞれのオーディエンス、建築的出版の過度の延命、そして1990年代以降書籍という伝統的な役割を変化させるだろうデジタルメディアの台頭としての歴史/理論の統合や実践の前ではあるが— その成功は単純に再現不可能だし、歴史的に繰り返し得ない状況を生み出したのだ。「次のカノン的書籍は何か?」という調査からは何も生まれない。「再度カノン的なるものはあり得るのか?」、あるいはとりわけ「カノン的というアイデアや出版の役割がその間に決定的な変化を被るのか?」はいまだ残る問題である。
 

キャプション
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調査に参加してくれた人に、建築という領域において自身の向上に影響を与えた書籍を5つ挙げてくださいとお願いした。タイムラインは回答者(のべ330以上のタイトルが挙げられた)が挙げてくれた全ての書籍をカバーしている。上に「積まれた」書籍は挙げられた回数を示す。色分けはジャンルを示していたり、それぞれの書籍のオーディエンスを意図している—青は建築書、ピンクは人文系、紫はフィクション、そして緑は教本や技術書だ。
 

円チャートは今日建築書の役割や価値に関する基礎的な質問への答えを示している。とりわけ調査によって最も有名だとされたコールハース『S, M, L, XL』と『錯乱のニューヨーク』について。


Credits
Graphic Design—Timeline: over,under / Chris Grimley
Graphic Design—Book Survey: over,under / Chris Grimley, Kyle Jonasen
Exhibition: pinkcomma gallery (Chris Grimley and Mark Pasnik), September 2009



下訳/さかきばら

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