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3月14日は大屋先生レクチャーの最終回。

「自由か個人か―配慮される社会と私たちの選択」
をテーマとした大屋先生のレクチャーもついに最後となりました。
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♯1「自由と幸福の19世紀システム」参照
♯2「監視とアーキテクチュアルな支配」参照
♯3「先取られる欲望と善意の監視」参照
♯4「20世紀と自己決定する個人」参照
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と続きまして、今回のタイトルがこちら。

     「自由と幸福の行方」

今回は前口上ありません。これまでのおさらいもありません。上に挙げたリンクをたどりながら過去レポをご参照ください。至らないレポだらけですが、少しでも雰囲気をお伝えできていたら幸いです。

それではどうぞ。


2月14日は大屋先生レクチャーの第4回目。

すでに約1ヶ月を経ようとしたこの時期にしれっと更新させていただきます。
次回大屋先生レクチャーは3月14日となっております。

「自由か個人か―配慮される社会と私たちの選択」
をテーマとした大屋先生のレクチャーもすでに3回を終えました。

♯1「自由と幸福の19世紀システム」参照
♯2「監視とアーキテクチュアルな支配」参照
#3「先取られる欲望と善意の監視」参照

と続きまして、今回のタイトルがこちら


    「20世紀と自己決定する個人」


唐突ですが、新学期の季節となってまいりました。新中学生、新高校生の方々にとって「制服がダサくて垢抜けないからモテない」のはひとつの問題です。一面では制服によって個性が消され、服装を選ぶという自由が排除されている、とも取ることができます。制服を無くそうという運動がこうした流れで起こることも無理はありません。でも他方で、その制服を着て「垢抜けず」「モテない」のは「私」のせいではないとも言える。あくまでも制服が悪いと言い張ればいいのです。ところが、もし制服が廃止され、服装を毎日「自由に」選び続けなければならなくなると、そのモテない「責任」は「私」に降りかかってくるのです。それでなくても、毎日服装を考えないといけないことは、単純に言って面倒でしょう。一時期起こった制服廃止論が結局制服の全廃を実現できなかったのは、まさにこの「自由から逃走したい」という人々の欲望から来ていたと考えられるのです。

第1回目で見たように、19世紀において自由は幸福と一致していた、と考えられていました。そして自らの幸福についてもっとも正しく判断することができるものこそが個人であると信じられていた。ところが、上に述べた制服の例でも示唆されるように、19世紀から遠く離れ、その「個人」のあり方がちょっと変わってきているのではないか、というお話が今回レクチャーのスタートです。

では以下レクチャー内容をさっくり振り返っていきましょう。 
12月17日は大屋先生レクチャーの第3回目。

♯1「自由と幸福の19世紀システム」参照
♯2「監視とアーキテクチュアルな支配」参照

と続きまして、今回のタイトルがこちら。

 「先取られる欲望と善意の監視」

突然ですが、「マッキントッシュ」が世に出てから25周年となりました。1984年のスーパーボールで放映されたリドリー・スコット監督の有名なCMが当時の人に与えた衝撃はかなりのものだったと思います。youtubeで今も見えるそのCMがコチラ

 1月24日、アップルコンピューターがマッキントッシュをお届けします
 そして皆さんは知るでしょう
 1984年という年が「1984」のようにならないそのわけを


CMの中の「ビッグブラザー」による監視支配-「人々」の従属という関係は、まさにここで引き合いに出されているジョージ・オーウェル「1984」が描いたディストピアでもありました。単一の主体による支配、服従する覇気のない人々。その関係を打ち壊すヒロイックな主人公に私たちは胸を打たれるわけですが、よく考えてみると「彼がなぜ支配するのか」は今ひとつわからない。というわけで今回のレクチャーは、この「監視する主体」、そして「その理由」がポイントになってきます。

前回のレポートは長くなってしまいましたので、今回はスッキリめにお届けしたいと思います。では以下、くわしめにレポートしていきます。 
12月20日は大屋先生レクチャー第2回目。

「自由か幸福か――配慮される社会と私たちの選択」
と題された連続レクチャーは
第一回目「自由と幸福の19世紀システム」参照
に引き続き、今回のタイトル
「監視とアーキテクチュアルな支配」へと入っていきます。

夜道、歩いて帰るときにちょっと暗いな怖いなと思ったことは誰にでもある話。何かが「出そう」で怖い、というむきはさておいても、その場所の暗さが「人の目」を隠してしまうことを恐れているのでしょう。歌舞伎町の例を引くまでもなく近年監視カメラの普及率が増加している理由として、あまねく場所に「誰か」の目を行き渡らせたい、逆に言えば「穴」を作りたくないという欲望があるように思います。必ずしもその「誰か」は人でなければならないわけではない、となれば、監視カメラこそその役にうってつけのものだと言えるのではないでしょうか。

というわけで今回は監視カメラの話からスタート。近年増加傾向にあるとされる監視カメラが、ただ増加したというだけではなく、現在どのような状態をつくりだしているのかを踏まえつつ、それが「アーキテクチュアルな支配」とつながった現状の確認へと進んでいった今回のレクチャー。以下ちょっとくわしめに、ここで言う「アーキテクチャ」とは何ぞやという疑問もほぐしながら、レポートしていこうと思います。 
11月8日、大屋雄裕先生(法哲学)のレクチャー1日目。

先生のテーマは「自由か個人か―配慮される社会と私たちの選択
第一回目のタイトルは「自由と幸福の19世紀システム」でした。
こちらでこの回のレクチャー映像をちょっとだけ公開しております

凝ったスライドショー、丁寧なレジュメ、やさしく毒のある言い回し、この三点セットのおかげで法哲学ズブの素人(わたくしですが)にもわかりやすい講義でした。目下レクチャー映像を鋭意編集中です

参加人数は10余名。専門家の方、専門じゃない方、テレビ局の方、新聞記者の方とバラエティに富んだフロアとなり、先生生徒がひとつの机を囲みながらの議論が実現しました。講義と質疑応答が同じ時間配分(むしろ後者のほうが長かったかも)だったのが印象的。今後ますます双方向的なコミュニケーションの場が出来上がっていきそうです。

○では以下さっくりとした概略です。

今回は、名古屋大学大学院法学研究科准教授でいらっしゃいます大屋雄裕先生の研究室にお邪魔してレクチャーのこと、それから大屋先生ご自身についてお伺いしようと思います。



Q:まず先生ご自身の専門である法哲学という分野を分かりやすく説明して頂けますでしょうか。


まず法律学というのは大きく分けると実定法学と基礎法学という二つに分かれます。お医者さんで言うと、実定法学というのは病院で患者さんを診てる人たち、つまり実際に法律があるのでそれをどう保護してくのかとか、どう事件に当てはめていくのかという解釈を考える人たち。それに対して医学部においても基礎医学といって、有名なのは解剖学の養老孟司先生がいますが、医学に関わる事柄を科学的に研究する、必ずしも患者さんを診ない人たちがいます。それと同じように法律学にも基礎法学者といって、日本で有効な法律の話をしているのでは必ずしもなくて、それを取り巻くさまざまな事柄について科学的な探求をするという人たちがいるわけです。典型的には法制史学者というのは、法律や政治に関わるさまざまな事柄の歴史を研究する。だから法学部にいるけど研究手法は歴史学に近い。法哲学者というのもその一分野で、法に関わる事柄を哲学的に探求するということを使命にしています。そもそも法とは何かとか、あるいは法の解釈とか適用を我々はやるわけですが、これは一体哲学的に考えるとどういうことを我々は実際にやっているのだろうかとか。そういうことを考えています。
この面でいうと大きな一つのトピックというのは、法解釈が客観的なのかどうか、法の適用には必ずこうでなければならないという唯一の正解があるのかないのか、といったことですね。そもそも法とは何のためにあって、したがってどういう法律が良いのか。良い法律と悪い法律というのは、プロの中ではそれなりに見解が一致するところではあるのですが、実際そこで我々は何を考えているのか、我々がそこで直感的に考えている基準は何かとか、あるいはそもそも我々の直感は間違っていて、実は良い悪いはこういう風に決まるんだというようなことを哲学的に考えましょうというのが、法哲学の役目です。


Q:大屋先生の研究テーマについて教えていただけますか。


大きく二つあって、一つは先ほど申し上げた法解釈の客観性というテーマです。法解釈ということで我々は実際何をやっていて、それにどの程度の客観性があるかということ。もう一つは情報化社会の到来というのが背景にあって、分かりやすいところではさまざまな法律が次々に変わることを強いられている。典型的には刑法を見ればわかりますが「電子計算機使用詐欺罪」なんてのは電子計算機がない頃には存在しなかったわけです。古典的にはテレホンカードの偽造みたいなものが出てきたときに、それに対応する新しい犯罪類型というものを我々は考えないといけなくなってきた。最近では電子商取引であるとか、あるいは選挙にPCやネットワークの使用をどこまで許すかということが課題になってきている。このようにさまざまな変化を強いられているわけですが、これが大きく言うとどういう変化であってその中で今まで我々が使っていたような法律とか政治のシステムがどのように変わっていくかということを研究しています。


Q:情報化社会の到来に合せて法が変わっていかなければならないのかという問題は、専門家の間でも広く共有されていることなのでしょうか。


情報化社会論というくくりで考えると、つまり問題の方からみると結構多くの方々がやっておられて、例えば現代思想では東浩紀先生、社会学の大澤真幸先生とか北田暁大先生とか、そういう問題を扱ってらっしゃる。一方でそれが社会のレベルの問題ではなくて、それを動かしている具体的なルールとしての法の問題になると、具体的なトピックはみんなやっているわけですよ。例えば刑法学者は、今後新たな犯罪類型をどうやって取り締まるかを考えています。けれども法律というシステム全体に着目してそれがどう変わるかということをやっている人間はそう多くないと思いますね。


Q:研究に関係があるかないかは別としておいて、主要な関心事、あるいは最近の社会的なニュースとかのなかで面白そうだなと思っていることはなんでしょうか。


いろんなことが関係あるんですけど、情報化社会の到来ということの大きなポイントは、「国家」というものですね。それが一つの軸なんですが、その国家の力というのがかつて思われていたほど絶対的なものではなくなってきているということでしょう。これは経済的なグローバライゼーションとの関係も強いわけですが、お金と情報の行き来を国家がコントロールできなくなってきている。かつては、国家権力というのはリヴァイアサンであって、つまり人民すべてをひれ伏させることができる強大な実力の持ち主だったわけです。ところが、最近のところで言うとサブプライム問題に端を発する世界恐慌の危険というものが迫ってきていて、アメリカは大不況を引き起こさないために国内経済を救済するための国費投入ということを決めようとしました。ところがその枠組が、人民の代表であるところの下院で否決されてしまう。要するに国民はこんなものやりたくない、必要ないといって法案が否決されてしまう。国民の意思が国家を動かしたんだからそれで話が終わりかと思ったら、お前何考えてるんだと世界中から批判されてしまう。アメリカが原因を作ってはじまった恐慌で、そこで止まらなければ他の国がどんどん巻き添えになるのに、国民が納得しないからといって手を抜くなと言って周りの国家が批判するわけですよね。そしてアメリカ政府はこの法案をなんとかしてもう一回通そうとしました。ここでは、ある政府の決めたことというのが、その国家の中にすら絶対的な実力を持っていない。ひとつながりの国際社会の中のアクターとしてしかるべき役割を果たさないと、他の国々から批判を浴びて、その批判を受け入れざるを得ないという構造がある。しかもそれは、アメリカという世界最大のパワーを誇る国のやることですらそうだと。かつては国家がある国の領域のなかで絶対的な実力を持つ、その実力の裏付けは国民の合意である。国民が国を支持しているからそういうことになるので、民主的正統性があるからそのように国民を支配してもいいのだと考えられてきたわけですが、そういう力強い国家像が非常に揺らいでいるということは言えると思いますね。


Q:それはやはりさっきおっしゃられたようなグローバル経済、あとは情報の行き来というのが一番のファクターになっているのでしょうか。


そうだと思います。世界がいろんな面で実質的に繋がってしまっている。かつては例えば経済で市場というときには、一般的には国内市場のことを意味していて、その例外として貿易があったわけです。国内が市場であって、そこから出入りするものを貿易として別に勘定しましょうという枠組でやってきたのですが、もはやそんなことは言っていられない。世界のお金のマーケットというのは一つに繋がってしまって、ある市場の動向が他の世界中の市場に次々に波及していってしまう。もちろんそれを成り立たせているのは情報の自由なやりとりです。一番基底的なレベルであるモノや人もどんどん境界線が揺らいで動くようになっていますが、まだ実態としてのモノが動かないといけないところの流動性はそんなに高くない。それは国がコントロールできるからですよね。けれども人は動かせなくなくても、仕事は動かすことができる。つまりアウトソーシングで、たとえばコンピューター関係のカスタマーサービスの対応だけインドに投げる。インド人がインドで仕事してるんだけど、サービスの対象はアメリカですという状態になってきています。


Q:ありがとうございます。ではちょっとお答えづらい質問かと思いますが、大屋先生ご自身の研究の価値というのをどのように捉えられていらっしゃいますか。


まず法哲学とは法学部で一番金にならない学問だと私は言うんですけど、それはなぜかというと、私が見ている変動というのが、大きく言えばこう流れていくだろう、こういうふうに変わっていくだろうというもので、これはどれくらい経ったら出てくるか分からない。例えば私は情報化社会論の関係で、現在のような著作権制度というのは崩壊せざるを得ない、遠からず崩壊するだろうと言っているですが、この「遠からず」というのは世紀単位の話だと思うんですね。例えば100年は続かないだろうという話なんです。私の研究というのはそういう意味で、他の実体的なことを扱う人たちがやっていく研究の枠組、その奥にあるトレンドみたいなものを掴もうとしているので、直接的にそれが普通の人の役に立つかどうかというと、たぶんあまり役に立たないんです。でもまあ、そういう研究の方向みたいなものを探る役に立てばいいと思っています。


Q:その大きい動きを捉えられる際に、どういうものが一番のファクターになるのでしょうか。


簡単に答えるのは難しいのですが、「考え方」ですね。考え方の枠組みか、その背景にある理念、価値、そういったものを視ていると、単に表面的な利害関係の対立ではなくて、そもそも尊重してる価値とか世界の捉え方の違いが背景にあるというように気付くことがあります。具体的には「NIFTY-Serve事件」という、パソコン通信上での名誉毀損を巡る事件があったのですが、もちろん裁判になったわけですから、一番表面のレベルでは損害があったかどうか、その損害をいくらと評価すべきかという対立ですね。もちろん原告は一千万とか、被告はゼロだと主張するというような構造があります。しかし、私はこの事件の一番の重要性は、具体的な金額を巡る争い、つまり金額というものが重要な価値だと両方が認めた上でそれを争っていくというものではなくて、そもそもNIFTY-Serveというのがどういう場所なのか、それが開かれた言論の場なのか、顔見知りによるあるいは仲のいい人たちによるおしゃべりの場なのかということを巡る価値観の対立にあったと読み解こうとしています。特に法律の場合、民事裁判では必ず何らかの損害に対する賠償を求めるという形に構成しないと裁判にならないわけですから、本当は謝ってほしいと思っていても何らかの経済的被害を受けたという体裁にしないと普通は訴訟として成立しません。裁判というものが求める形式性という表面と、その奥にある本当の欲望、隠された考え方というのを注意して読まないといけないだろうと考えています。


Q:先生の研究テーマとして先ほど「解釈の客観性」そして「情報化社会における法」という二つを挙げていただきましたが、この二つの繋がりはどのように考えられているのでしょうか。


一つ目のテーマ「解釈の客観性」というのは、ウィトゲンシュタインの言語哲学を法解釈の問題に応用するというやつでして、そもそも分かる人間、興味を持ってくれる人間が法哲学者の中にさえ何人いるのかということを考えないといけない研究なんですね。実際この分野の主要業績というのは、日本では長いあいだ出ていない。ところが学者も勤め人ですから、ある程度人に分かりやすい研究もやっておかなければいけない。そこで当時関心のあった情報化社会の問題をサブテーマとして始めたというところです。
ただ研究生活に入って10年くらいたっているんですが、その二つが実は繋がってきているんではないかと思ってるんです。それは、解釈の客観性を巡る問題における私の結論というのは「客観性はない」ということなんですね。事前に決められたルールは我々の行動を制約できない。我々は盲目的に行動していて、基本的には何か問題になったときに後付けで正当化を考えているんだけれど、その後付けで正当化するというのが重要なところで、単に暴力で黙らせるのではなくて、こういう理由で僕の方が正しいでしょと言いあうことによって暴力的な衝突を回避する。そういうシステムとして法とか政治とかが作られたと考えるべきなんだという立場です。つまり、世界とか社会の秩序というのが神様に創られていてその通りにやればうまくいくというのではなく、我々が何とか作っていかなければならないものなんだと。トラブルにぶつかったときに、こっちの方がいい、あっちの方が正しいと言って競い合うことによって、なんとかこしらえてきたものに過ぎないという見方なんです。これはつまり、背景の世界が変わったら秩序も変わらないといけない、我々がこう思うというのを変えれば、変わってしまうはずだということを意味している。
この秩序の人工性、そこで人々の欲望のあり方に従って秩序がどんどん変化していくというのが実は一番端的に表れてきているのが、今であればインターネットのあり方だろう。たとえばインターネット上でどういう通信が可能かというのは、我々が参加しているネットのコミュニティーが決めてきたわけです。こういうルールで通信しましょうという秩序に従ってみんなが生きている、人工的な秩序です。その中で誰か勝手なことをやりだすやつがいて、しかしそれがすばらしいとみんなが思ったら、それは新しいサービスとしてインターネット上で定着し、存在を認められてしまう。例えばgoogleだって最初出てきたときは、なんだこんなものという人はたくさんいたわけです。つまり人間の目を通してない、他からリンクされたものは重要であろうという推定にもとづいて並び替える検索サービスが、人が見ているのに比べてよくなるはずがないと。でもgoogleは、こっちの方がいいんじゃないかと思ってやってみて、結局みんなそっちに乗ってしまった。そうするとgoogle的なサービスというのがインターネット上での非常に重要な一部として存在して、それが世界を作っていくようになる。情報化の問題を私が選んだ背景には、そういうものが見えていたのかもしれない。


Q:情報化社会については学部生のころから研究されていたとのことですが、その時のテーマはどのようなものだったのでしょうか。


まだ研究というよりは勉強を始めてたくらいですけれども。大学の法学部というのは勉強をするところですから(高校まではやってない学問ですから)、その法律の勉強をしながら、しかしこういうところに問題があるなと思って始めていたんです。当時扱ったのは、自主的なルール形成といったわりと古いインターネットの時代の話なんですが、我々が普段相手にしている秩序というのは国家が支えているものであって、国家の暴力というものによって支えられ制裁が行われることによって担保されているような秩序です。ところがインターネットには、そういうものがない。インターネット上で何をやったって国家が飛んでこないという状況があって、にもかかわらず古い時代のニュースグループの時代のインターネットにはある程度の秩序があって、秩序違反者への制裁が行われていた。となるとこの秩序を支えているものは何なのか。テクニカルタームで言えば、ある種の「自生的秩序」、おのずからできてくる秩序ということですが、その一形態ではないかと。参加者がみずから維持し、違反者に制裁を各自加えることによって維持されているコミュニティーみたいな、初期のインターネットの姿というのがまだあって、それが国家が支える秩序という外の法律の世界とそろそろ衝突しかけていたころですね。


Q:情報社会における法、自制的な秩序ですとか、例えばレッシグ『CODE』で示されているように「法」、「市場」、「規範」を今までの社会における支配のモードとして捉え、さらにもうひとつのモードとして「アーキテクチャ」をあげていて、そこに先生の話も接続されていくかなと思うのですが、この辺りに関してどうお考えでしょうか。


一つはインターネットのあり方をレッシグの議論は非常に良く捉えていて、古いインターネットというのは規範の世界なんですよね。自主的に形成された規範をみんなが守っているというような世界である。それがアーキテクチャ的な支配に変わっていってしまう。フリーソフトウェア運動のように、みんながインターネットの世界を良くしていくためにそれぞれ少しずつコントリビュートしてその結果よくなっていくという考え方から、マイクロソフトがバーンとWindowsのようなソフトを作ってしまい、それが我々の行動を規制してしまって、しかもしばしばそれは我々にとって快適なのでいいかと思ってしまう。そういう支配に変わってきた。そういう発達史みたいなもの、そのアーキテクチャルな支配が徹底していくことにどう立ち向かうかということを考え始めてしまうわけですが、それを考えていくことが実は古典的な法哲学の枠を外れているという批判がなくはない。社会の制約の形式として見るならば法と共通性もあるけれど、狭い意味の法とは関係ない問題を扱っているわけです。だからどちらかというと権力、規制の正統性という問題に一般化して考えようとしている。でも、法哲学というのはもともと権力行使の正統性に関わる学問なんですよ。なぜ国家が人々を支配するということが許されるのか。その観点から言えば、いま人々を支配する手段が狭い意味での法だけではなくなってきたときに、じゃあもっと広いものも見ましょうというのは法哲学の発展の仕方として当然じゃないかという気はします。

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ここまでで半分です