Results tagged “READTANK” from RAD
テレプレゼントの覚え書き
エージェン・オースターマン
西欧のデザイン企業がアジアの建設市場やデザイン市場は重大なビジネスであると信じるまでに少しばかり時間がかかったし、野心、規模、そして発展の速度に直面するまでにも時間がかかった。でも今となっては彼らは事を理解し、その1兆ドルの木からいいとこ取りをしようとしている。現在西欧の住宅市場は失速しているというか、それ以上のことになってるからなおさらだ。ここのところ「東アジアへ行く」は「単に」住宅地、鉄道駅、空港、ファイバーネットワーク、排水処理場などなどを輸出するということのみならず、都市まるごとの輸出にまで拡大している。西欧は「ニュータウンを建てる」というテーマに長い間向き合ってきているわけだが、今日それはビジネスチャンスとなっている。
「Privatize!」号や「Centers Adrift」号でいくつかの転換を見てきたが、今号のVolumeではまた別の転換を取り上げたい。都市建設や都市マネジメントに関して誰が主導権を持っているのか、誰が決定しているのか、そして誰が統治しているのか、についての転換だ。
Continue reading Volume#34 Notes from the tele-present.
Continue reading RT|Articles in volume and its translation.
漂流
エージェン・オースターマン
「中心地はどこですか?」という質問は観光客が都市を訪れたときに最もよく聞くものだろう。その中心というのは、何かしらがそこで行われていて、活気ある面白い生活があり、見るべきものも多く、単純に「行きたい」と思わせるようなところだ。それは観光客を「中心」に引きつける引力と(機能的な)密度の問題だ。こうした観光客的目線は都市(どんな都市でも)の理解を左右している。西欧的な「古いコアがあってだんだん拡張していった」モデルはほとんど同心円状になっていて、そこでの典型的な建物形態は居住のためのものだ。人が今自分がどこにいるかを考えるときの心理的モデルでもあるが、それは最近の歴史。「都市の中心」の象徴—3つの同心円—は更新されなければならない。新たな都市圏(例えば深圳)では、中心とか、コアとか、成長とかいう概念は欠けている。そして古いコアを持つ大都市においては、かつての空間的ヒエラルキーはその後の開発によって隠されている。都市性にあまり関連のない多くの大学があり、過密した地域があり、そうでもないところがあり、商業地域があって、産業地域があり、居住地域もあって、余暇のための地域がある。そしてそれらの様々な組み合わせもある。
私たちの心理は空間的現象としての「都市」の物理的発展に対応しているわけではない。でも、もしかしたらそうかもしれない。ランドスタッドにおけるオランダ郊外への社会学的なリサーチによれば、マイホームを持っている幸福な人たちは自分たちが周縁地域に押しやられているだなんて感じていないし、中心から排除されているとも感じていない。対照的に、彼らは自身の住む場所を中心としてとらえている。様々なインフラに容易にアクセスできるし、映画を見に行ったり飲みに行ったりといくつかの(都市の)中心にも近い。これは中心という考え方が主観的なものになっているということを示す例だ。人によって異なる。そして話はややこしくなるが、個々人は自身の社会的役割やその時々のニーズによって、その都度中心を異なってとらえるのだ。
Continue reading Volume#32 Adrift.
建設的な罪
エージェン・オースターマン
「敵に尽くすような人やものについて横柄に喋ったりすることはよくある。まあそれはいいんだけど、どんな敵にも服従するマツとモミはどうだろう? じゃあ敵が活動的になっているイメージを見てみよう。木々が背景にあり、笑いながら立っている。マツとモミだけじゃなくて他の木々もまた同じ。これは何か語られるべきじゃない?僕は、そうだな、と思う。というのも、木々、森の端と木々、それはまだそこにあって、かつてあったところと同じ場所にあるからだ。木々が動くなんて考えない。無関心な目撃者のようにそこにいまだ立っている。僕はそれを観察した。眺めた。それから何かものすごいことが起きた。木々は美しく、僕はそれが美しいと思った[...]敵がいた場所、敵が配された場所、敵に保護され破壊された場所、敵が恐怖におののいた場所、敵の恐怖の痕跡が見つけられるだろう場所、その美しさ。それがそこにある。美はきまりの悪いものなのだ。」アルマンド、1988年
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「罪深い景観」とは、その種の景観について繰り返し書いたオランダの画家、彫刻家、ライター、そして音楽家であるアルマンドから拝借した概念である。第二次世界大戦の以前、最中、以後とアメルスフォートに住み、その森に位置する強制収容所にほど近く、無垢な森は戦争とホロコーストの恐怖を目撃してきたのだということに彼はよく気づいていた。
先の引用が示すように、その場所の経験(そして「その種の場所」の経験)は複合的なものだ。場所の美しさは何が起こったのかという知識によって強化される。避難とリラクゼーションの場所としての自然、美と場所の経験は記憶と知識とによって複雑なものにされている。その結果、審美的な経験は罪の感覚を生み出す。そうしたシーンに審美的に感動することは許されるべきではないし、正しいこととも思えない。
Continue reading Volume#31 Constructive Guilt.
インフラ死すとも、なくならず
ブレンダン・コルミール
世界規模で迫りくるインフラ危機を受けて、道路、下水管、そして送電線を将来どうまかなっていくかに関する議論が起こっている。数年前には民営化がその解決策として歓迎されていたが、現在的な経済状況はその戦略に疑問を投げかけている。国がその資金をまかなえず、個人や私企業がそのリスクを負いたくないとき、私たちはどうすべきか? 建築家はこの議論—つまりアフォーダビリティはデザインの課題だということ—に加担している。私たちは自律的にペイするような新種のインフラをデザインできるだろうか?
世界中の国家はインフラ危機に直面している。老朽化して悪くなったインフラも、増大する人口の要求に応える十分なペースで更新されたり、取り替えられたり、改善されたりしているわけではない。時にこれはセンセーショナルで悲劇的な事件—ミネアポリスでの橋の崩壊、モントリオールの地下道へのコンクリート塊の落下、ニューオーリーンズでの嵐による堤防決壊—で明確なものとなる。しかしさらによくあることとして、それは私たちの経済、環境、そして日常生活に影響を与えるような、微妙でいて広く見られる現象—より長くなる通勤通学、更なる汚染、交通の遅延—あらゆる種の非効率性へと帰着するのだ。
Continue reading Volume#30 Infrastructure is Dead – Long Live Infrastructure.
ロードマップ2050 豊かな低炭素型ヨーロッパへ向けた実践的ガイド
OMA/AMO
OMA/AMOは、気候変動に対する人間認識のレベルと、それへの対応の規模には反比例の関係があるということを示してきた。世界的な認識の高まりにもかかわらず、カタストロフを回避しようとする努力は、根本的な変化をというよりは、原因に対するリップサービス――形だけの「グリーン」な製品、記事、キャンペーンというような――をなしているにすぎない。世界的なコンテクストをほとんど考慮せずに、一握りのLEED【Leadership in Energy &Environmental Design】認証された建物や僅かなグリーンウォールを提示したため、建築はこうした批評を免れることができなかった。
ICL、KEMA、McKinsey&Company、E3G、Oxford Economicsとの協同によって展開された欧州気候財団【European Climate Foundation】の取り組みのひとつ、OMA/AMOのロードマップ2050は、CO2排出量を2050年までに80%減少させるという目標へヨーロッパが至る方途を示した。
ボリューム、売ります
エージェン・オースターマン
私たちボリュームがいかに「建築を超えていく」かの探究を開始してまだ七年。無関心に近い楽観主義がいまだ支配的だったこの間、新たなニュースが次々と舞い込むなか、社会に対する建築の貢献を再考することは不可避だと思われた。そして社会の方が建築のどんな貢献を求めているのかを新たに検討することもまた然り。
1970年代、80年代、モダニズムの帰結に関する絶望がポストモダニズムを生み出した。もう少しきっちりと言うと、ポストモダニズムは、より個別化された働き方にぴったり当てはまるプログラムを改変できない、というモダニズムの性質を標的にしていた(これはいさましい話だが、しかしそうであるにはあまりにも動きがバラバラすぎた)。モダニズムは産業社会から生まれ、――その生産様式を使用しながら――あらゆる人のためによりよい世界を約束していた。ポストモダニズムは消費社会から生まれ、金を出せる人によりよいプロダクトを約束した。あらゆる人が思いのままに購買できるような豊かなレベルへ社会は到達するのだ、という思い込みがあったわけだ。
Continue reading Volume#30 Volume for sale.
真実か郊外
オレ・ボウマン
人類というものが誕生して以来、真実は人々が互いに示し合う時にだけ成り立つものとなった。真実を示すことは対話や多面的な対立に基礎を置いている。もちろんこのプロセスは骨が折れる。ゆえに個々人は真実を見つけ出そうと努めるだけではなく、真実という考え方を、慎み深く幸福に満ちた暮らしのために欠かせない社会的慣習として、信じている。あなたが正直であれば、そのとき相手もあなたに対して正直になるだろう、と。
こうした考え方に固有なことは、ただ一緒にいるだけじゃダメ、という考えである。真実という考え方は、共生という考えを必要とする。それは古代ギリシアの人たちも知っていた通り、政治的なディベートを必要とする。ローマ人に習えば、「市民【civitas】」を要する。つまり、都市が必要だ。文明の価値としての真実は、人々が都市に住んでいる限りでしか維持されないということ。
Continue reading Volume#09 Truth or Suburbia.
Editorial
エージェン・オースターマン
※05.30再編集
それがどんなものだったのか想像することすら難しいのだけど、かつて、書物なき生活というものがあった。日々歩ける範囲内で世界の出来事や知識が成立していた時代。書物の導入はタイムカプセルの発明にほかならない。物語、アイデア、洞察、知識は突如として伝達者から解放され、距離を繋ぐことや表面化することができ、消えては現れることとなる。
本来、タブレット、パピルス紙、原稿用紙、なんであれ、書物ははじめから特別な権利とされていた。どれくらい特別かというと、それが置かれたところを正当化するくらい特別だった。聖堂や宝物庫という「ライブラリ」は、支配と誘導の道具のみならず、野心と権力の表れとして生まれたわけだ。
Continue reading Volume#15 Destination Library.
遍在する中国
オレ・ボウマン
今日まで、この雑誌では真っ先に時代遅れになるようなアートではなく、未来における好機の前触れとなるジャーナリズムを支持してきた。何かを見つけたり予測したりするようなジャーナリズムは、必要とあらば、予防的でありかつ先制的でもある。それは既に終わった取引に覆いをかけてしまうわけではなく、その可能性を露わにする。とりわけ建築ジャーナリズムは長い間、受身的な考え方にこもることで屈辱を感じてきた。その考えとは、何か出来事が終わるまで待つのだが、現実の生活が落ち着く前に一番乗りしようとする考え方だ。
ジャーナリズムにかかる問題として、建築の新しい課題は何か、建築的知の適用の可能領域はどこまでかということを私たちは扱ってきた。これらに対する答えは、年代記的な結果の羅列の中ではなく、可能性の領域の中にある。建築的知の始まりが5 - 10年前(建築プロジェクトの完成に必要な平均的な年数)でしかないような既存の建物について学ぶ代わりに、私たちは建築的知の未来を描くべきではないだろうか。
Continue reading Volume#08 Ubiquitous China.
ダイナミシティ
—変化するメトロポリスための戦術
エミリアーノ・ガンドルフィ(Emiliano Gandolfi)
多くの建築家たちにとって、都市の静的な理解に基づくこれまでの実践は現代の大都市を理解する手段としてあまり効率的でないことが明らかになりつつある。今日私たちが住む都市はもっとダイナミックなものだ。前世紀末に起こった技術的かつ社会地理学的な革命によって都市は急速に変わり、あまりに広大に、あまりに無定形になったがために、計画の無秩序化に対する大規模な戦略がもはや通用しなくなっている。ときに、ある展覧会が現代建築のなかで最も重要なひとつの傾向が持つアウトラインをトレースし、それら起こりつつある姿勢を規定する方法論に目を向ける機会を与えてくれる。
「ダイナミシティ」展。この展覧会では4組の建築組織による仕事が展示されている。彼らは戦術的に都市のダイナミックさへと介入し、その再読を可能とするために都市の風景をたどり、トレースし、そしてマッピングすることを自身の役割として見ている。「アクタール・アルキテクチュラ(Actar Arquitectura:スペイン)」、「アトリエ・ワン(Atelier Bow-Wow:日本)」、「コーラ(Chora:オランダ)」、「オッセルヴァトリオ・ノマド(Osservatorio Nomade):イタリア」の4組だ。彼らは、都市生活の質、快適さ、コミュニケーションシステム、そして感覚的側面などの優れた分析を行いながら、都市環境を再考し再提示する。私たちに都市のダイナミックな側面を見せ、理解させる仮設構築物、マップ、モンタージュ、そしてそこに身を置くことさえできる他の構築物をも造り出した。
Continue reading Volume#04 DYNAMICITY: Tactics for a Changing Metropolis.
相関性のデザイン
エージェン・オースターマン
20年ほど前、建築雑誌は「完成したばかり」のプロジェクトを下見してもらったり、内覧したり、写真を見てもらったりする機会への招待にまみれていた。10年くらい前になると、コンペに勝った提案についてのプレスリリースが情報欄にどんどん加えられるようになった。ちょっと前には特別なお知らせが出回るようになった。コンペへの提案それ自体さえパブリシティのチャンスとなったのだ。「今朝8:30に事務所をスタートさせました。新しい朝が私たちの目の前に広がり、期待に胸溢れています」みたいなことをプレスリリースが伝えるようになるまでは時間の問題と思われるかもしれない。パブリシティ、イコール、経済。おそらくそれはいまだにそうだ。でも名刺代わりのプロジェクトが、つまりはっきりと「誰々の」と認識しうる仕事が必然的に新たな業務を直接引っ張ってきたりするわけじゃない。もうそういう風にはなっていないことを私たちは知っている。大抵の西欧諸国でそうじゃないし、多くの事務所だって然り。90年代後期、縮小というものが興味深い都市現象、すなわち建築家というプロフェッションにとっての新たな挑戦として発見された。今日このテーマは最も予期しないかたちでそのプロフェッションに降りかかっている。クライアントがいない。ほんとにいないのだ。
これはどこにでも当てはまる現象じゃない。アジアではどでかいデザインタスクやら建設仕事やらを向こう数十年抱えている。ラテンアメリカだって、その先に横たわっているものがアジアが直面しているものとは比較にならないにせよ、まだ終わっちゃいない。それからアフリカ。そう、アフリカ。ちょっと付け加えておくと、デザインに対する需要と機会は十分ある。これが西洋になると、主に既存のストックをどう生かすかが問題となっている、んじゃないか? 社会における変化は新たな働き方や来るべきデザインにとっての新たな領域を示唆してくれる。
Continue reading Volume#28 Correlation Designing.
国境を越える空間
Regina Bittner, Wilfried Hackenbroich, Kai Vockler
※以下は「volume」誌の第3号に掲載された「Transnational Spaces」という記事の一部です。全訳です。
第6期「Bauhaus Kolleg」は、アーバン・メトロポリスにおける国境を越える空間の発展に着目している。このプログラムが焦点化しているのは、グローバリゼーションという現象がローカルな形の適応を引き起こしているという特定の空間的布置である。
これらの地域やそこでの進展は今日の都市や建築の計画にとって重要な場となっている。経済や金融、国際的な移動、グローバルメディア、そしてコミュニケーションネットワークの越境は、すべて文化的、経済的、そして社会的な活動がもはやローカリティに制限されていないような都市のコアにおける国境を越える空間の発生につながっている。ここでは、人々、商品、情報、そしてシンボルが移動していくことの強化や成長が最も分かりやすい。ローカリティが「フローの空間」へととけ込んでいくプロセスとしてのグローバリゼーションという考え方に対して、このプログラムは国境を越える諸々のネットワーク相互の関連、特定の空間に集まってくるローカルな実践、地域を越えた実践、そして国境を越えた実践の交わりを探究していく。こうした場の中で、日常的実践は固定化された国境線から切り離され、国境を越える社会的空間へと発展する。近隣やコミュニティという伝統的な考え方では、こうした現象はうまく説明できない。多様な地理学的地域のなかにある社会的生の現実は、こうしたネットワーク内で生まれ、新たな形のハイブリッドを生み出すのだ。国境を越える空間は、ローカリティとグローバリゼーションとの間の変化した空間的相互関係を研究するための情報に溢れた場なのだ。新たな、そしてはっきりとは明らかにしづらい関係性が生まれてくるごとに —空間と社会との間に、また物理的環境と社会的行為との間に— これは建築や都市計画のための新たな課題を提示する。これらは特定の場所やその直接的な文脈にはほとんど関係がなく、むしろその地域を越える連関のなかで場が持つ機能に関係しているのだ。
Continue reading Volume#3 Transnational Space.
闘争と受容
エージェン・オースターマン
2007年、金融恐慌が世界を激烈に襲ったとき、どこでも見られた反応は混じりっけなしの驚きだった。数十億、数兆ドルがこんなスピードで消えていくのかと思うと興味すら覚えるほどだ。二度と元には戻らない、と専門家は警告していたけれど、一般的な予測は、そのうち正常に回復するだろう、というものだった。私たちが生きるスペクタクル社会において、私たちは急な社会変化の昂奮に慣れている。私たちはこうしたイベントに対して、マジックを見ているかのように反応する。最初、マジシャンはあなたが見ているすべてがありふれたものであり日常のものであって、タネも仕掛けもないことを見せる。それから、彼はオーディエンスに想像もつかないことでもってびっくりさせる。そして聴衆がいまだその昂奮と戦っているとき、そして深く不安を感じているとき、正常な秩序をとりもどす —見て、何も変わってないよ、と。これは私たちが好むリアリティの理解だ。よいショー。ということで、ビジネスの話に戻ろう。
私たち自身の状況を理解するために有効な他のリアリティモデルがある。管理モデルだ。地域的な人口減少、海水面の上昇、といった具合に問題は浮かび上がる —そういう種類のものごとは、ということだけど。それは伝えられるべきであり、解決されるべきでもある。だれかがそれをしないといけない、でもそれは私の関心事ではない。政府か自治体はこの責任をとらないんだろうか? 私は税金を払っているわけだし。しかもどうあったってそれは私の手の届く範囲の話じゃない。
Continue reading Volume#27 Fight and Accept.
オン・ザ・ムーン
エージェン・オースターマン
いまだかつて人が月に足を踏み入れたことはない。と、いまだに信じている者もいるにはいる。そういう人はショックを受けて(きっとまた受けることになる)いることだろう。この世紀が終わるまでに、新たな月面着陸のミッションでは、月をより精密に探究するよう基地を打ち立てての長期滞在が予定されている。月への定住はもはや絵空事なんかではなく、世界中の科学者の間でその調査や発展にとって焦点化さるべき次なるステップだととらえられている。「そこにたどり着くこと」はいまだ課題であるが、「そこに滞在すること」がより大きな問題となっている。探究や開拓の目的地として、あるいは主にハブとして、月は「次の停留所」なのだ。
月に関する特集を組んでみないか、と同僚に話したとき、彼はこう返した。「もう地球に問題は残ってないってこと?」彼はこう聞こうとしたのかも。「月ってもう時代遅れじゃない? いまはどっちかっていうと火星じゃないか?」と。じゃあ後者の方から考えてみよう。この特集をどうするかという数週間の決定期間のうちに、新聞は、モスクワで行われた520日にわたる火星ミッション試験について、新しい「NASA Mars-rover」(2011年に打ち上げられる)の試験について、そして今年の終わりに国際宇宙ステーションへ送られる予定のヒューマノイドロボット「Robonaut2」について、伝えていた。それは、地球外への定住やディープスペーストラベルに関わるR&Dが現在行われている、という、氷山のより報道価値のある一角でしかなかった。そう、宇宙旅行のゴールはシフトしたのだ。でも、私たちがそのゴールに到達しようとすれば、どのみち月へ行くことになるだろう。ここで前者の方に戻って考えてみると、その答えは「ノー」となる。私たちは地球上の問題に事欠いたわけでも、それに飽きたわけでもない。建築の試験は潜在力(と弱点)を発見するよい方法だ。だから私たちの定義における人類活動の中の建築という領域を含み込むことは、興味深く、そればかりか重要なことであるとさえ考えている。もう一度含み込むべきだ、というべきか。
Continue reading Volume#25 On the Moon.
PEACE FIGHT
エージェン・オースターマン
哲学者でなくたって、「平和は闘争だ」ということくらい分かる。さらに一歩進めてこう言う人もいる。「平和は戦争だ」と。戦争と平和は対立するものであり、共生するものでもある。だからこう思わせもする。「戦争のない世界なんてあり得るんだろうか」と。他にもっとポジティブな言い方がないかと思うが、例えば平和は戦争の不在と定義されるとしたら、戦争は平和にとって不可欠な構成要素ということになる。
幸運にも建築家はこの難問を解かなくていい。なぜなら彼らはよき目的のために頑張るからだ。つまり、手助けとなるためにいる、ということだ。建築は何か有益なものを与え、状況をよくするものだとされている。違う? 問題がどこかにある、そしてそれは簡単に解けるものじゃない。ときに、こうした社会的役割は建築において割と最近展開されたものである、ということを思い出してみるといいだろう。19世紀の中頃まで、建築の公共的な役割はひとつのコミュニケーションだった。個人の、あるいは、ある党派の立場を伝え、確認し、あるいは確立する、という具合に。もし建築が公共領域や広い意味での社会へと与えられるとしたら、それはギフト、つまり親切さだとか慈善だとかのデモンストレーションだった。それはヒエラルキー的、政治的なものであって、良心からくるものじゃなかったのだ。
Continue reading Volume#26 PEACE FIGHT.
ニューロポリティックス
C-Lab
1960年代のあからさまな政治的あり方をとる自己表現とは異なって、LSDへの関心を表明することは、既存の信条との整合性を必ずしも明確にすることなく、各々の個人的な政治を示唆し得る。LSDの服用は、社会的慣習やそれに対応する精神状態にも、抵抗の規範や政治的な反抗にも規定されないものとして、人の主観性と身体とに対するひとつの権利を確立することなのだ。それは自律性の表明—ティモシー・レアリーが言うところの、自分の脳をコントロールせんとする欲望—だったのだ。LSD使用の政治的場面は、統御への服従に対する有効な拒絶にある。つまり仕事場、核家族、教育機関、あるいは軍隊といった様々な規制に従属しない精神的な生を実験的に追求することにあった。レアリー流に言うとLSDというのは精神と社会的秩序との根本的に異なった関係を生み出すプロセスの「再プログラム」手段だったのだ。
レアリーはこの関係性を「ニューロポリティックス」と呼ぶ。この語は以下のような彼の考えを言い表している。曰く、政治的問題は脳化学に基礎を置く集団心理学的問題に従って解明され得る、と。この化学を変化させることは政治的関係性を変えるための第一歩であった。LSDの使用はイデオロギー的な抵抗とは異なった形式のそれであり、これまでのような政治運動を意図的に避ける。レアリーはこれを「社会ゲーム」のまた別の形としてしか見ておらず、エスタブリッシュメントにとってのオルタナティヴを提供するにはあまりにも権威主義的だと考えていた。唯一のオルタナティヴはというと、政治的変化の外的表現へと至らざるをえない内的変容のプロセスだ。レアリーはこのように書いている。同僚の心理学提唱者アラン・ワッツにとって自己の内的活動は本質的にゲリラ的なものあった、と。彼はワッツの仕事を「神経システムの政治 —「外の」政治と同じくらい複雑で同じくらい重要な」と言い表している。ワッツの仕事に対するレアリーの評価は「幻覚剤の使用を型破りな政治として仮定する」というものであり、そこでは主観性の再プログラミングは政治活動の前提条件になっていた。
C-Lab
1960年代のあからさまな政治的あり方をとる自己表現とは異なって、LSDへの関心を表明することは、既存の信条との整合性を必ずしも明確にすることなく、各々の個人的な政治を示唆し得る。LSDの服用は、社会的慣習やそれに対応する精神状態にも、抵抗の規範や政治的な反抗にも規定されないものとして、人の主観性と身体とに対するひとつの権利を確立することなのだ。それは自律性の表明—ティモシー・レアリーが言うところの、自分の脳をコントロールせんとする欲望—だったのだ。LSD使用の政治的場面は、統御への服従に対する有効な拒絶にある。つまり仕事場、核家族、教育機関、あるいは軍隊といった様々な規制に従属しない精神的な生を実験的に追求することにあった。レアリー流に言うとLSDというのは精神と社会的秩序との根本的に異なった関係を生み出すプロセスの「再プログラム」手段だったのだ。
レアリーはこの関係性を「ニューロポリティックス」と呼ぶ。この語は以下のような彼の考えを言い表している。曰く、政治的問題は脳化学に基礎を置く集団心理学的問題に従って解明され得る、と。この化学を変化させることは政治的関係性を変えるための第一歩であった。LSDの使用はイデオロギー的な抵抗とは異なった形式のそれであり、これまでのような政治運動を意図的に避ける。レアリーはこれを「社会ゲーム」のまた別の形としてしか見ておらず、エスタブリッシュメントにとってのオルタナティヴを提供するにはあまりにも権威主義的だと考えていた。唯一のオルタナティヴはというと、政治的変化の外的表現へと至らざるをえない内的変容のプロセスだ。レアリーはこのように書いている。同僚の心理学提唱者アラン・ワッツにとって自己の内的活動は本質的にゲリラ的なものあった、と。彼はワッツの仕事を「神経システムの政治 —「外の」政治と同じくらい複雑で同じくらい重要な」と言い表している。ワッツの仕事に対するレアリーの評価は「幻覚剤の使用を型破りな政治として仮定する」というものであり、そこでは主観性の再プログラミングは政治活動の前提条件になっていた。
Continue reading Volume#24 Neuropolitics.
エディトリアル
ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)
近年のアメリカではストリートに出て抗議したり、クスリをキメたりするような人はほとんどいない。今となっては、ヒッピージェネレーションが持っていた社会的理念の多くはメインストリームとなっている。60年代のオルタナティヴな価値がもたらした今にいたる影響の中で最もセレブレートされた例は、技術の世界において見ることができる。メディア歴史学者フレッド・ターナー(Fred Turner)は、彼の著書『カウンターカルチャーからサイバーカルチャーまで』において、60年代の重要人物が集結したあるグループについて書いている。彼らは、よく知られたストーリーが私たちに伝えるような脅威や手の届かない「支配者層」への反抗はしなかったのだが、兵器産業複合体のなかで発展してきた防衛技術に対する、パッと見矛盾するような関心を持っている。ターナーは、スチュワート・ブランド(Stewart Brand)らによって喚起された、知へのアクセスを要求するというカウンターカルチャーの反響は、ウェブを大衆化し情報によって成長する社会へのシフトを起こす、パーソナルコンピュータープロダクトやネットワークツールの発展に影響を与えたと見ている。
現在のアメリカ文化をざっと眺めたときにそうした60年代に関する暗示と見えるものは、今も昔も、コンピューター技術、自然環境、そしてコミュニティのオルタナティヴな形に対する強い関心だ。しかし今日そのどれもがラディカルな政治的行動や初期の反抗的イデオロギーからは断絶している。例えば、地球への関心などは当てにならない、気まぐれな、運頼みくらいのものだったはずなのだが、カウンターカルチャーとアメリカで現在一般的になっている意見との間にイデオロギー的な差異はあるにもかかわらず、現在では大多数の人々に共有されている。サステナビリティは、かつてエンターテイメント的環境保護の姿勢へと熱烈に反発した事業部門ー不動産開発だとか—にもその重要さが引きあいに出されるほど、私たちの集団的経済意識の一部になっている。同じように、カウンターカルチャーの社会的原理—参加、情報共有、より一層の社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)、そして共同のために他者と結ぶ賛同ベースのネットワークやその識別可能な範囲ーは現在の社会資本を打ち建てるための基本的公理なのだ。
ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)
近年のアメリカではストリートに出て抗議したり、クスリをキメたりするような人はほとんどいない。今となっては、ヒッピージェネレーションが持っていた社会的理念の多くはメインストリームとなっている。60年代のオルタナティヴな価値がもたらした今にいたる影響の中で最もセレブレートされた例は、技術の世界において見ることができる。メディア歴史学者フレッド・ターナー(Fred Turner)は、彼の著書『カウンターカルチャーからサイバーカルチャーまで』において、60年代の重要人物が集結したあるグループについて書いている。彼らは、よく知られたストーリーが私たちに伝えるような脅威や手の届かない「支配者層」への反抗はしなかったのだが、兵器産業複合体のなかで発展してきた防衛技術に対する、パッと見矛盾するような関心を持っている。ターナーは、スチュワート・ブランド(Stewart Brand)らによって喚起された、知へのアクセスを要求するというカウンターカルチャーの反響は、ウェブを大衆化し情報によって成長する社会へのシフトを起こす、パーソナルコンピュータープロダクトやネットワークツールの発展に影響を与えたと見ている。
現在のアメリカ文化をざっと眺めたときにそうした60年代に関する暗示と見えるものは、今も昔も、コンピューター技術、自然環境、そしてコミュニティのオルタナティヴな形に対する強い関心だ。しかし今日そのどれもがラディカルな政治的行動や初期の反抗的イデオロギーからは断絶している。例えば、地球への関心などは当てにならない、気まぐれな、運頼みくらいのものだったはずなのだが、カウンターカルチャーとアメリカで現在一般的になっている意見との間にイデオロギー的な差異はあるにもかかわらず、現在では大多数の人々に共有されている。サステナビリティは、かつてエンターテイメント的環境保護の姿勢へと熱烈に反発した事業部門ー不動産開発だとか—にもその重要さが引きあいに出されるほど、私たちの集団的経済意識の一部になっている。同じように、カウンターカルチャーの社会的原理—参加、情報共有、より一層の社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)、そして共同のために他者と結ぶ賛同ベースのネットワークやその識別可能な範囲ーは現在の社会資本を打ち建てるための基本的公理なのだ。
Continue reading Volume#24 Editorial.
年の瀬も年の瀬ですが、12月27日(月)のお昼から、volume24号「カウンターカルチャー」特集号の序文(ジェフリー・イナバ)を読んでいきます。興味のある方はコチラにある連絡先までご一報下さい。
以下、最初のパラグラフを引用します
以下、最初のパラグラフを引用します
Continue reading RT|12月27日READTANKします.
環境保護主義を拡張する
C-Lab
この半世紀で環境への関心はカウンターカルチャー的運動からメインストリームの問題へとシフトした。政治の動向に近年環境問題が突出してきたわけだが、それでもなお特筆すべきはこういうことだ。問題に対する気づきの増加は、世界規模の気候混乱という変化に解決策を与えることとほとんど関係ない。のみならず、建築環境に対する現在的な救済策(LEEDのような)が広く採用されていることは、多くの科学者が必要だと信じている程度—少なくともUS、中国、ロシアやインドのような主要汚染国の間で—で排出を削減しようという国の政策と合致してこなかった。よくある環境保護主義的処方箋の効率性には疑う余地がある。
マイケル・シェレンバ—ガー(Michael Shellenberger)とテッド・ノードハウス(Ted Nordhaus)は彼らの著作「環境保護主義の死※」において、環境運動は新たな戦略を必要としていると指摘する。とりわけ彼らはこう述べる。環境政策改正を提唱する人は、環境を別個の領域として考えることを辞めるべきだ、と。個別のものとして伝達され、問題を含み、故にそれが他の要求と対立するときには却下されてしまうような「あちら」のものとして環境を対象化する限りにおいて、そのような見方をとる人々は他の社会的政治的問題から分離するようにしてその障害を見てしまう。そうではなく、戦争だとか貧困だとか過度な汚染だとかいう人間が作った現象を考えから排除した環境保護主義の狭い枠組みから抜け出すために、二人は環境を他の社会政治的問題を包括するものとして理解することを促す。こうしたアプローチによって、環境保護主義的な想像力は技術的問題に取り組むことだけに限定されなくなり、他方で非効率的な政策を長続きさせる政治的文脈をすっとばすこともできる。シェレンバ—ガーとノードハウスはこうも言う。気候変化は見たところ分断した社会的あるいは政治的イシュー—例えば選挙資金、国際貿易、あるいは富のシステム的不均衡—が環境にもたらす帰結を認識することによって取り組まれるしかない、と。現在、環境保護主義が決定しているトピックは多く彼らの活動見通しのらち外にある。
C-Lab
この半世紀で環境への関心はカウンターカルチャー的運動からメインストリームの問題へとシフトした。政治の動向に近年環境問題が突出してきたわけだが、それでもなお特筆すべきはこういうことだ。問題に対する気づきの増加は、世界規模の気候混乱という変化に解決策を与えることとほとんど関係ない。のみならず、建築環境に対する現在的な救済策(LEEDのような)が広く採用されていることは、多くの科学者が必要だと信じている程度—少なくともUS、中国、ロシアやインドのような主要汚染国の間で—で排出を削減しようという国の政策と合致してこなかった。よくある環境保護主義的処方箋の効率性には疑う余地がある。
マイケル・シェレンバ—ガー(Michael Shellenberger)とテッド・ノードハウス(Ted Nordhaus)は彼らの著作「環境保護主義の死※」において、環境運動は新たな戦略を必要としていると指摘する。とりわけ彼らはこう述べる。環境政策改正を提唱する人は、環境を別個の領域として考えることを辞めるべきだ、と。個別のものとして伝達され、問題を含み、故にそれが他の要求と対立するときには却下されてしまうような「あちら」のものとして環境を対象化する限りにおいて、そのような見方をとる人々は他の社会的政治的問題から分離するようにしてその障害を見てしまう。そうではなく、戦争だとか貧困だとか過度な汚染だとかいう人間が作った現象を考えから排除した環境保護主義の狭い枠組みから抜け出すために、二人は環境を他の社会政治的問題を包括するものとして理解することを促す。こうしたアプローチによって、環境保護主義的な想像力は技術的問題に取り組むことだけに限定されなくなり、他方で非効率的な政策を長続きさせる政治的文脈をすっとばすこともできる。シェレンバ—ガーとノードハウスはこうも言う。気候変化は見たところ分断した社会的あるいは政治的イシュー—例えば選挙資金、国際貿易、あるいは富のシステム的不均衡—が環境にもたらす帰結を認識することによって取り組まれるしかない、と。現在、環境保護主義が決定しているトピックは多く彼らの活動見通しのらち外にある。
※マイケル・シェレンバ—ガーとテッド・ノードハウスとによる「環境保護主義の死」はこちらから。http://thebreakthrough.org
Continue reading Volume#24 Expanding Environmentalism.
事実と摩擦
ジェイ・ローゼン(Jay Rosen)
聞き手:ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)、タレン・モンゴメリ(Talene Montgomery)
ストーリーをどのように伝えるのかをジャーナリストはどうやって決めるのだろうか? あるひとつのストーリーをレポートするときに彼らが負う責任とは? そしてどの程度彼らは大衆の関心を書くのだろうか? ニューヨーク大学でジャーナリズムを教えるかたわら報道批評も行うジェイ・ローゼンはこれらの問題を、ジャーナリストは大衆を表象するのか/つくりだすのかに関し長年にわたって行われている議論を引き合いに出して説明している。曰く、「大衆は見つけられることを待っているものであり、私たちが目に見えるようにしなければならない」と。この議論に付け加えるべきは、市民ジャーナリズムの到来、そしてとりわけ新たなストーリーをつくる際の大衆の役割についての議論である。ローゼンは、語られたストーリーに関するジャーナリズムの新たなモデルが生み出す問題点を正確に指摘しながら、伝統的ジャーナリズムに関する方法論の風景を通してヴォリュームをガイドする。
--
ジェフリー・イナバ(以下JI)
「ジャーナリストは何のため?」という記事において、あなたは大衆の脆さを指摘しています。大衆は不変の実在物ではありえず、ゆえにその延長上で考えれば「大衆の関心」など安っぽい言葉だ、とあなたは言っているように思われます。「大衆」を規定する際の報道の役割とはどのようなものでしょう?
ジェイ・ローゼン(Jay Rosen)
聞き手:ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)、タレン・モンゴメリ(Talene Montgomery)
ストーリーをどのように伝えるのかをジャーナリストはどうやって決めるのだろうか? あるひとつのストーリーをレポートするときに彼らが負う責任とは? そしてどの程度彼らは大衆の関心を書くのだろうか? ニューヨーク大学でジャーナリズムを教えるかたわら報道批評も行うジェイ・ローゼンはこれらの問題を、ジャーナリストは大衆を表象するのか/つくりだすのかに関し長年にわたって行われている議論を引き合いに出して説明している。曰く、「大衆は見つけられることを待っているものであり、私たちが目に見えるようにしなければならない」と。この議論に付け加えるべきは、市民ジャーナリズムの到来、そしてとりわけ新たなストーリーをつくる際の大衆の役割についての議論である。ローゼンは、語られたストーリーに関するジャーナリズムの新たなモデルが生み出す問題点を正確に指摘しながら、伝統的ジャーナリズムに関する方法論の風景を通してヴォリュームをガイドする。
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ジェフリー・イナバ(以下JI)
「ジャーナリストは何のため?」という記事において、あなたは大衆の脆さを指摘しています。大衆は不変の実在物ではありえず、ゆえにその延長上で考えれば「大衆の関心」など安っぽい言葉だ、とあなたは言っているように思われます。「大衆」を規定する際の報道の役割とはどのようなものでしょう?
Continue reading Volume#20 Fact and Friction.
シティー・ガイド
エージェン・オースターマン(Arjen Oosterman)
よく知られているように、他者の目を介す事で普段の習慣を新たなものとして見いだすことができる。それはすでにクリシェであるが、それゆえ真実であるに違いない。あなた自身の都市のガイドを手にしてみよう。そして一度、その指示に従い、自分の街のツーリストになってみる。全てがそれまでとは違ったものとして見えてくるだろう。その結果、感性的経験が、機能とか感情的経験に代わって中心的になる。あなたの友達が住んでいるストリートは、もはや楽しい時間への道程ではなく、訪れるにものうげな場所に変化する。以前の工場地帯だったあなたのオフィスが位置している自由で豊かなエリアは、孤立し荒廃した粗末な建物の群れへと変化してしまう。一方で、職場への道にあ るいつもは無視してしまうような小さな教会が、見事な細部をともなう繊細な空間的構成物としてあらわれてくる。
おそらく熟練した旅行者はこれらの経験には満足しない。彼らはオーセンティック(真正さ)を目指し、その場所で生活する人々の生の情報を探そうとする。事実、彼らはあなたの都市を普段あなたが見ているように見たいと熱望している。そしてトラベルガイドは通常では不可能な時間と方法を提供することによって、そこに住む人々の視点を与えているように狡猾に見せかけている。幸いな事にそんな事は不可能である。もし真正さが何か意味を持つにしても、それはそのようなものとして記述され認識された瞬間に失われる。旅行者が求めるものは、真正さというものを商品、そして単純に反目するものへと変化させてしまう。
エージェン・オースターマン(Arjen Oosterman)
よく知られているように、他者の目を介す事で普段の習慣を新たなものとして見いだすことができる。それはすでにクリシェであるが、それゆえ真実であるに違いない。あなた自身の都市のガイドを手にしてみよう。そして一度、その指示に従い、自分の街のツーリストになってみる。全てがそれまでとは違ったものとして見えてくるだろう。その結果、感性的経験が、機能とか感情的経験に代わって中心的になる。あなたの友達が住んでいるストリートは、もはや楽しい時間への道程ではなく、訪れるにものうげな場所に変化する。以前の工場地帯だったあなたのオフィスが位置している自由で豊かなエリアは、孤立し荒廃した粗末な建物の群れへと変化してしまう。一方で、職場への道にあ るいつもは無視してしまうような小さな教会が、見事な細部をともなう繊細な空間的構成物としてあらわれてくる。
おそらく熟練した旅行者はこれらの経験には満足しない。彼らはオーセンティック(真正さ)を目指し、その場所で生活する人々の生の情報を探そうとする。事実、彼らはあなたの都市を普段あなたが見ているように見たいと熱望している。そしてトラベルガイドは通常では不可能な時間と方法を提供することによって、そこに住む人々の視点を与えているように狡猾に見せかけている。幸いな事にそんな事は不可能である。もし真正さが何か意味を持つにしても、それはそのようなものとして記述され認識された瞬間に失われる。旅行者が求めるものは、真正さというものを商品、そして単純に反目するものへと変化させてしまう。
Continue reading Volume#22 City Guide.
ブロックバスター
エージェン・オースターマン(Arjen Oosterman)
数年前、中国の都市化に関するいくつかの指標が少しずつ西洋のそれにまで追いついたとき、一般的な反応は沈黙せる驚愕だった。文化的プログラムかと思われた「20×20」だが、あきらかにこのコードは約20諸国全体への等価な住宅供給に立脚したものだった。たった20年で4億人のための都市。これは合衆国の人口全体よりも多い。
このニュースは容赦なくある事実をつきつける。西洋におけるコンスタンティノス・ドクシアディスの都市発展に対する考えが地区や近隣へと制限されていたが故に、都市や地方のスケールに関して今後取り組まれることはほとんどないという事実。オランダにおいて20万人の都市を計画することは無謀なことだと考えられており、これは他の西洋都市においても潜在的には同じことだ。
エージェン・オースターマン(Arjen Oosterman)
数年前、中国の都市化に関するいくつかの指標が少しずつ西洋のそれにまで追いついたとき、一般的な反応は沈黙せる驚愕だった。文化的プログラムかと思われた「20×20」だが、あきらかにこのコードは約20諸国全体への等価な住宅供給に立脚したものだった。たった20年で4億人のための都市。これは合衆国の人口全体よりも多い。
このニュースは容赦なくある事実をつきつける。西洋におけるコンスタンティノス・ドクシアディスの都市発展に対する考えが地区や近隣へと制限されていたが故に、都市や地方のスケールに関して今後取り組まれることはほとんどないという事実。オランダにおいて20万人の都市を計画することは無謀なことだと考えられており、これは他の西洋都市においても潜在的には同じことだ。
Continue reading Volume#21 Blockbuster.
エディトリアル
ジェフリー・イナバ (Jeffrey Inaba)
ストーリーテリングは事実を伝達することである。しかしそれはまた大衆の期待を膨らませたり、 その信用を高めるための現実的根拠を積み重ねるものでもある。このような目的の為に、ストーリーテリングをあらためて童話とつきあわせる必要がある。童話、特におとぎ話は現実から目をそらすためのものだとみなされる一方で、社会や政治のあらすじを明解にする手助けともなり得るのだ。「ヴォリューム9 号」、「アーバン・チャイナ31号」、「C-Labに密造されるアーバン・チャイナ」、「ヴォリューム19号」において続けて来た一連の研究を背景にしな がら、今号のヴォリュームではそこでテーマとなっていた世界的危機に応答しようと思う。今の時代を理解し、それへ返答する語りを組み立てる手段としてストーリーテリングをお届けしよう。
危機は混乱を生み出す。それはあらゆる可能な手段が失敗に終わった状況だ。そのような最悪の状況を改善しようとして取られる行動が具体的な帰結へと至ることはあまりない。原因と結果の間に理解し得る相互関係は無く、そのため結果的に進むべき道が分からなくなるのである。環境はどれもある程度同じように見えるときもあるだろうが、その環境のふるまいは理解し難いものであるが故に因果関係の分離が起こり、それが混乱を招くのである。空間が説明不可能になるとき、それが危機だ。
ジェフリー・イナバ (Jeffrey Inaba)
ストーリーテリングは事実を伝達することである。しかしそれはまた大衆の期待を膨らませたり、 その信用を高めるための現実的根拠を積み重ねるものでもある。このような目的の為に、ストーリーテリングをあらためて童話とつきあわせる必要がある。童話、特におとぎ話は現実から目をそらすためのものだとみなされる一方で、社会や政治のあらすじを明解にする手助けともなり得るのだ。「ヴォリューム9 号」、「アーバン・チャイナ31号」、「C-Labに密造されるアーバン・チャイナ」、「ヴォリューム19号」において続けて来た一連の研究を背景にしな がら、今号のヴォリュームではそこでテーマとなっていた世界的危機に応答しようと思う。今の時代を理解し、それへ返答する語りを組み立てる手段としてストーリーテリングをお届けしよう。
危機は混乱を生み出す。それはあらゆる可能な手段が失敗に終わった状況だ。そのような最悪の状況を改善しようとして取られる行動が具体的な帰結へと至ることはあまりない。原因と結果の間に理解し得る相互関係は無く、そのため結果的に進むべき道が分からなくなるのである。環境はどれもある程度同じように見えるときもあるだろうが、その環境のふるまいは理解し難いものであるが故に因果関係の分離が起こり、それが混乱を招くのである。空間が説明不可能になるとき、それが危機だ。
Continue reading Volume#20 Editorial.
4月17日にREADTANKを行います。
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今回はVolume#20を読みます。当号のテーマは「ストーリーテリング」。もちろん文学的な物語の作り方語り方ではなく、建築において「ストーリー」を組み立て、語ることについての文章です。事実の伝達のみならず大衆の期待を膨らませ、その期待に信頼を持たせうるものこそストーリー。建築のあり方を左右する「ストーリーテリング」のあり方を、今の社会を理解するためにも、考えていきます。
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詳細な時間はご連絡をいただけたらお伝えします。興味ある方はぜひどうぞ。
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今回はVolume#20を読みます。当号のテーマは「ストーリーテリング」。もちろん文学的な物語の作り方語り方ではなく、建築において「ストーリー」を組み立て、語ることについての文章です。事実の伝達のみならず大衆の期待を膨らませ、その期待に信頼を持たせうるものこそストーリー。建築のあり方を左右する「ストーリーテリング」のあり方を、今の社会を理解するためにも、考えていきます。
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詳細な時間はご連絡をいただけたらお伝えします。興味ある方はぜひどうぞ。
Continue reading RT|4月17日READTANKします.
希望の建築
エージェン・オースターマン (Arjen Oosterman)
ヴォリューム19号のためのデザインミーティングで私たちは、この特集では希望を表現しなければならないと話した。そのことは挑戦だというのは、幾分ありきたりな返答で、それに対して次号は全体が白黒で出版されることが決まる。虹色も無ければ、目を楽しませるものも無し、混沌とした日常的なマルチカラー、驚くべきイメージの猛襲をともなう畏怖、ショックもない。代わって物語へ戻ろう。私たちは戦後の時期から、魅力的で期待できるモノクロのイメージへの暗黙の参照を考え続けているのだろうか。おそらく結局のところ、現在私たちは、過去に彼らが行なったようには、私たちの社会や未来を再評価できていないだろう。
福祉的社会の建設は、今や凋落しつつある西洋社会において重要な戦後プログラムだった。現在(生産/消費と経済という)2重のシステムの崩壊は、今一度再び、どのようなプログラムとパースペクティブが考案されるかを指し示している。経済的、社会的、政治的次元において、彼らは無限性というコンセプトの中で啓蒙され近代化されたプロジェクトを達成していた。(そのコンセプトは、建築と都市発展における空間的無限性をともなって十分に働いていた。しかしながら、空間は不可分で、たかだか一時的に局所化され特異化されていた。)現在の課題は、地球との繋がりを伴った空間体験と混同にすること無しに、境界と無限というコンセプトを操ることにある。(国境、領土的限界、地理的な?)
エージェン・オースターマン (Arjen Oosterman)
ヴォリューム19号のためのデザインミーティングで私たちは、この特集では希望を表現しなければならないと話した。そのことは挑戦だというのは、幾分ありきたりな返答で、それに対して次号は全体が白黒で出版されることが決まる。虹色も無ければ、目を楽しませるものも無し、混沌とした日常的なマルチカラー、驚くべきイメージの猛襲をともなう畏怖、ショックもない。代わって物語へ戻ろう。私たちは戦後の時期から、魅力的で期待できるモノクロのイメージへの暗黙の参照を考え続けているのだろうか。おそらく結局のところ、現在私たちは、過去に彼らが行なったようには、私たちの社会や未来を再評価できていないだろう。
福祉的社会の建設は、今や凋落しつつある西洋社会において重要な戦後プログラムだった。現在(生産/消費と経済という)2重のシステムの崩壊は、今一度再び、どのようなプログラムとパースペクティブが考案されるかを指し示している。経済的、社会的、政治的次元において、彼らは無限性というコンセプトの中で啓蒙され近代化されたプロジェクトを達成していた。(そのコンセプトは、建築と都市発展における空間的無限性をともなって十分に働いていた。しかしながら、空間は不可分で、たかだか一時的に局所化され特異化されていた。)現在の課題は、地球との繋がりを伴った空間体験と混同にすること無しに、境界と無限というコンセプトを操ることにある。(国境、領土的限界、地理的な?)
Continue reading Volume#19 Architecture of Hope.
エディトリアル
エージェン・オースターマン (Arjen Oosterman)
70年代の終わりか80年代のはじめごろのいつからか進歩は保守的になった。逆にデザイナーにとってこれは、それぞれの仕事が個人的な好みに基づくようになったくらいのことだったように思われる。建築家の中には自らがモダニズムに心酔していることをほのめかす者もいるにはいたが、それに支配的なパラダイムとして向き合うことは時代遅れであった。残りの者は歴史に心酔していた。でもそれがおそらく一番のポイントだろう。勝利をおさめた自由市場経済(あるいは新自由主義として知られてもいるもの)の結果として主張された「歴史の終わり」とともに、建築はその方向性を見失った。当時あらゆる種類のパーティ(党派)空間があった。ブロッブパーティ、伝統的響宴、ハードコアなテクノロジーパーティ、エコガーデンパーティ、メガストラクチャーアフターパーティ、そしてオンデマンドな個人主義からの終わりなきチルアウト。もし建築には微小な差異を作り出すことくらいしかできないだとか建築がただの差異でしかなくなったとしたら、あるいは、もし建築がベッドタイムストーリーを伝えることで事足れりとし、もうストーリーに寄与しようとしないのならば、そして、もし建築が原理的に物資を提供し、価値に重きを置かないのならば、そのとき歴史は本当に私たちの前を通り過ぎて行ってしまうのだ。
エージェン・オースターマン (Arjen Oosterman)
ノルウェイで書籍やギフトを扱う人気チェーン店ノータベネが、気候変化へのインパクトを抑えるため店内のメタルシェルフを再生紙でできた棚に変えるそうだ。低炭素社会への支持表明をなし、同企業は130ある店舗それぞれの什器や建具を100%オーガニックでリサイクル可能な材料でできたものに取り替えるとのこと。
(ノルウェー2008年11月27日付「Stora Enso Ventures」プレスリリースより)
70年代の終わりか80年代のはじめごろのいつからか進歩は保守的になった。逆にデザイナーにとってこれは、それぞれの仕事が個人的な好みに基づくようになったくらいのことだったように思われる。建築家の中には自らがモダニズムに心酔していることをほのめかす者もいるにはいたが、それに支配的なパラダイムとして向き合うことは時代遅れであった。残りの者は歴史に心酔していた。でもそれがおそらく一番のポイントだろう。勝利をおさめた自由市場経済(あるいは新自由主義として知られてもいるもの)の結果として主張された「歴史の終わり」とともに、建築はその方向性を見失った。当時あらゆる種類のパーティ(党派)空間があった。ブロッブパーティ、伝統的響宴、ハードコアなテクノロジーパーティ、エコガーデンパーティ、メガストラクチャーアフターパーティ、そしてオンデマンドな個人主義からの終わりなきチルアウト。もし建築には微小な差異を作り出すことくらいしかできないだとか建築がただの差異でしかなくなったとしたら、あるいは、もし建築がベッドタイムストーリーを伝えることで事足れりとし、もうストーリーに寄与しようとしないのならば、そして、もし建築が原理的に物資を提供し、価値に重きを置かないのならば、そのとき歴史は本当に私たちの前を通り過ぎて行ってしまうのだ。
Continue reading Volume#18 Editorial.
今回はVolume#18「AfterZero」の序文を読みます。建築における「エコ」問題を取り扱った文章ですが、サステナブルな建築とは何か、というような素朴な話ではもちろんありません。本当によりより生活をめざすためにわたしたちは「エコ」の名の下に起こる社会的な狂騒とどのように向かい合うべきなんだろう。もっといえば、「エコを問う」ということを問うためにはどうすべきなんだろう、という感じの旨が書かれています。ブラックなユーモアがピリッとスパイスを加えているすてきな文章です。以下はこの号の概説。
参加したい、という方はご連絡下さい。お時間等の詳細をお知らせいたします。
ちなみにVolumeの翻訳状況はこんなかんじです。
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もともとはちょっとおかしなヒッピー風イデオロギーだった「サステナビリティ」別名「エコ-フレンドリー」だとか「グリーン」だとかがいま世界中で受け入れられるようになった。でもそれってどういうことだ?環境的な切迫、政治的問題、技術的問題、歴史的必然、あるいは新たな世界の秩序?それからこれが受け入れられていることの帰結ってなんだろう?サステナビリティへのコンセンサスは結構危ない。というのも、このコンセプトはなんの政治的内容も持ってないが故にどんな要因にも使えるからだ。カーボンニュートラルやゼロエミッションはマジックワードのようなもので、自分たちの社会が持つ不平等さにまつわる複雑な倫理的諸問題を覆い隠しているんじゃないか。にしても、ゼロのための規制とかニュートラリティへの隠蔽は、すべてのひとがより良い都市の中で営む、より望ましい住居のなかでのふさわしい生活、をもたらしてくれはしない。アフターゼロというテーマは津波やカトリーナの恐怖によってインスパイアされたデザインに関して云々するものじゃない。ヴォリュームはゼロを超えた社会への理解を提案する。そのとっかかりとしてまずは二つのパースペクティヴを議論しよう。後期資本主義都市でのサステナビリティと都市農業の潜在力、これがその二つだ。
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参加したい、という方はご連絡下さい。お時間等の詳細をお知らせいたします。
ちなみにVolumeの翻訳状況はこんなかんじです。
イントロダクション
ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)
私たちは大きな量というものに驚かなくなった。十億単位での利益、一千万単位での都市人口や訪問客、売り上げ、千単位でのパーソナライズされた「おすすめ」や検索結果、百単位での科学的発見 に私たちは慣れてしまっているのだ。しかしその豊富なお金、情報、そして可能性を普通だと感じるやいなや、私たちは欠乏の世界に直面しはじめる。おそらく私たちは重度の不足に対して取り組むだけの、際限なき利用可能性の時代が到来したことを目撃した者として歴史に名をとどめるだろう。あらゆる種の資源は次第に減少していくと言われている。資産の、株の、投資の急速な目減り。再生不可能な燃料の低下する入手可能性。そして現実に追いついていない世界食料供給網の産出量。事態はまるでポーカーのようだ。(取引する主体にとっては)より都合のよいハウスルールのもとで行われ、しかしそのカードは着実に減りつつある。
拡大と過剰のこの時代の終わりにあって、C-Lab.はこの時期の象徴的な発明のひとつについて考える。コンテンツ・マネジメントに ついて。つまりデジタル情報の収集、体系付け、そして分配のことだ。情報管理における最近の発展に対する私たちの回顧的な評価は、デジタルには豊富、でも 物質的には欠乏している現在のリアリティに仕えうる、膨大な、あるいは極端に制限された量のどちらをも保護しうる、コンテンツ・マネジメントの可能性に識見を与えるのである。
ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)
私たちは大きな量というものに驚かなくなった。十億単位での利益、一千万単位での都市人口や訪問客、売り上げ、千単位でのパーソナライズされた「おすすめ」や検索結果、百単位での科学的発見 に私たちは慣れてしまっているのだ。しかしその豊富なお金、情報、そして可能性を普通だと感じるやいなや、私たちは欠乏の世界に直面しはじめる。おそらく私たちは重度の不足に対して取り組むだけの、際限なき利用可能性の時代が到来したことを目撃した者として歴史に名をとどめるだろう。あらゆる種の資源は次第に減少していくと言われている。資産の、株の、投資の急速な目減り。再生不可能な燃料の低下する入手可能性。そして現実に追いついていない世界食料供給網の産出量。事態はまるでポーカーのようだ。(取引する主体にとっては)より都合のよいハウスルールのもとで行われ、しかしそのカードは着実に減りつつある。
拡大と過剰のこの時代の終わりにあって、C-Lab.はこの時期の象徴的な発明のひとつについて考える。コンテンツ・マネジメントに ついて。つまりデジタル情報の収集、体系付け、そして分配のことだ。情報管理における最近の発展に対する私たちの回顧的な評価は、デジタルには豊富、でも 物質的には欠乏している現在のリアリティに仕えうる、膨大な、あるいは極端に制限された量のどちらをも保護しうる、コンテンツ・マネジメントの可能性に識見を与えるのである。
Continue reading Volume#17 Introduction.
楽園を計画する
エージェン・オースターマン(Arjen Oosterman)
「重要な建築的介入を始めるために必要な条件は、その実践に関わる一団(政府、地方自治体、個人投資家、ディベロッパー、建設会社、プランナー、デザイナー、そして建築家)との協議によってプロジェクトを規定することである。」「建築的介入と変容」に関する最近の国際会議におけるこの前置きは、今日における諸過程を考える「包括的な」方法に典型的なものである。プランやポリシーはもはや少数の専門家によって規定されたり実施されたりするものではない。それらはすべてのステークホルダー(利害関係者:現在的にポピュラーなもうひとつの概念だ)とともに発展させられる。すべての?たいていは介入の主体と被害者となる使用者/消費者/居住者は、ここから著しく抜け落ちている。
戦後の、大規模な、トップダウンの計画組織が多様な政治システムのなかでだんだんと機能不全になりはじめたとき、「市場」がその解決を許された。一定の繁栄レベルから推測して、需要は供給を導くだろうということになったのだ。あらゆるひとが、必要とするものを満足させ、政治は弱者、セキュリティ、そして(国際的な)競争を保護することだけに専念すべきだとされた。社会はつくられる必要もなかったし、もはやそんなことはできはしないのだ。事実、市民は自らが何を望むかを自分たちで決めた。これは建築家の役割と立場に関して重要な帰結を持つ。アルド・ヴァン・アイクはかつて、屋根を架けてあげることでひとの手助けをすることこそ建築家の役割だとしたことがある。(彼は付け加える「それがなかなか難しい」と。)それまで建築家がなすことはユーザーが望むかもしれないものを提案するだけということになっていたのだが、現在ヴァン・アイクの説明はますますありそうなことになりつつある。住宅建設において個人クライアントに割り当てられるものが次第に増していることは、最近まで少なくともオランダにおいては大きく欠かれていた、デザイナーとユーザーとの直接的な関係を生み出している。さらに、ヨーロッパやアメリカのそこここに市民の影響のラディカルなかたちが経験されている。その規模は小さいものだが、そこでは都市発展のための予算が、近隣、地区、あるいは村人そのものによって決定されている。(地方自治体の)政府が地域的に決定されたものを手助けするようなことはあまりない。
エージェン・オースターマン(Arjen Oosterman)
「重要な建築的介入を始めるために必要な条件は、その実践に関わる一団(政府、地方自治体、個人投資家、ディベロッパー、建設会社、プランナー、デザイナー、そして建築家)との協議によってプロジェクトを規定することである。」「建築的介入と変容」に関する最近の国際会議におけるこの前置きは、今日における諸過程を考える「包括的な」方法に典型的なものである。プランやポリシーはもはや少数の専門家によって規定されたり実施されたりするものではない。それらはすべてのステークホルダー(利害関係者:現在的にポピュラーなもうひとつの概念だ)とともに発展させられる。すべての?たいていは介入の主体と被害者となる使用者/消費者/居住者は、ここから著しく抜け落ちている。
戦後の、大規模な、トップダウンの計画組織が多様な政治システムのなかでだんだんと機能不全になりはじめたとき、「市場」がその解決を許された。一定の繁栄レベルから推測して、需要は供給を導くだろうということになったのだ。あらゆるひとが、必要とするものを満足させ、政治は弱者、セキュリティ、そして(国際的な)競争を保護することだけに専念すべきだとされた。社会はつくられる必要もなかったし、もはやそんなことはできはしないのだ。事実、市民は自らが何を望むかを自分たちで決めた。これは建築家の役割と立場に関して重要な帰結を持つ。アルド・ヴァン・アイクはかつて、屋根を架けてあげることでひとの手助けをすることこそ建築家の役割だとしたことがある。(彼は付け加える「それがなかなか難しい」と。)それまで建築家がなすことはユーザーが望むかもしれないものを提案するだけということになっていたのだが、現在ヴァン・アイクの説明はますますありそうなことになりつつある。住宅建設において個人クライアントに割り当てられるものが次第に増していることは、最近まで少なくともオランダにおいては大きく欠かれていた、デザイナーとユーザーとの直接的な関係を生み出している。さらに、ヨーロッパやアメリカのそこここに市民の影響のラディカルなかたちが経験されている。その規模は小さいものだが、そこでは都市発展のための予算が、近隣、地区、あるいは村人そのものによって決定されている。(地方自治体の)政府が地域的に決定されたものを手助けするようなことはあまりない。
Continue reading Volume#16 Planning Paradise.
求められない、すなわち―建築の新たな解剖学
オレ・ボウマン (Ole Bouman)
『ボリューム』誌前号の編集長が、本誌でその創刊から書き続けてきた「求められない建築」を最も具体的な形にして提示してくれた。建築を超えていく、という考えがいかに行動に移されるのかを例示しながら、ボウマンはOUA(Office for Unsolicited Architecture)を設立することによって批評的実践の新たな断面を示してくれるだろう。
人々があれこれの死について語っていたときのことを思い出してみよう。私たちはたくさんの葬式をあげた。ミシェル・フーコーは人類の死を言い張ったし、ロラン・バルトは作者の死を断言した。小説、真正 性、進歩、啓蒙、そうやって名指したものについて、哲学者たちは慰霊祭で話しあった。人々はまだ生きていたにもかかわらず、本はいまだ書かれて、進歩もま だまだなされていたにもかかわらず、それらはすべて生ける屍の文化だったというわけだ。過去もなければ未来もない。なぜなら歴史もまた死を宣言されたからだ。
オレ・ボウマン (Ole Bouman)
『ボリューム』誌前号の編集長が、本誌でその創刊から書き続けてきた「求められない建築」を最も具体的な形にして提示してくれた。建築を超えていく、という考えがいかに行動に移されるのかを例示しながら、ボウマンはOUA(Office for Unsolicited Architecture)を設立することによって批評的実践の新たな断面を示してくれるだろう。
人々があれこれの死について語っていたときのことを思い出してみよう。私たちはたくさんの葬式をあげた。ミシェル・フーコーは人類の死を言い張ったし、ロラン・バルトは作者の死を断言した。小説、真正 性、進歩、啓蒙、そうやって名指したものについて、哲学者たちは慰霊祭で話しあった。人々はまだ生きていたにもかかわらず、本はいまだ書かれて、進歩もま だまだなされていたにもかかわらず、それらはすべて生ける屍の文化だったというわけだ。過去もなければ未来もない。なぜなら歴史もまた死を宣言されたからだ。
Continue reading Volume#14 Unsolicited, or: The New Autonomy of Architecture.
エディトリアル
ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)
僕たちの分野、そしてたぶんあらゆる分野は野心によってその輪郭が浮かび上がってくる。自らを知るためには野心を知らなければならない。でも野心はとても じゃないがシンプルなんてものではない。それは決して簡単なようにも、単一の動因であるようにも見えない。むしろそれは、しばしば手段が目的と取り違えら れてしまうような相互干渉する緒力の1セットなんだ。野心を取り上げる今号のヴォリュームでは、見当違いな目的の風景となったものの下準備的な見取り図を提供しよう。
野心は私利を得るためのドライブじゃない。エリザベス・ディラーは彼女の寄稿で、僕たちに「メディアジェニック」ということを思い出させてくれる。権力や名声を獲得するためのむきだしの決意として野心を考えるなんてリダクティブなこ となんだ、と。野心を持つということは、特定のねらいを持つということでもある。ところがこのねらいは誰にもわからない。野心的な人はたかだか望まれた立 場や身分を勝ち取りたい、という目的くらいしか明らかにしない。それを手段として何をなすか、ではない。大統領になりたいという欲望を声高に叫ぶ人はいる だろうけど、それが現実のものとなったときに彼らが何をするのかなんて一体誰に分かるのだろうか。
ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)
僕たちの分野、そしてたぶんあらゆる分野は野心によってその輪郭が浮かび上がってくる。自らを知るためには野心を知らなければならない。でも野心はとても じゃないがシンプルなんてものではない。それは決して簡単なようにも、単一の動因であるようにも見えない。むしろそれは、しばしば手段が目的と取り違えら れてしまうような相互干渉する緒力の1セットなんだ。野心を取り上げる今号のヴォリュームでは、見当違いな目的の風景となったものの下準備的な見取り図を提供しよう。
野心は私利を得るためのドライブじゃない。エリザベス・ディラーは彼女の寄稿で、僕たちに「メディアジェニック」ということを思い出させてくれる。権力や名声を獲得するためのむきだしの決意として野心を考えるなんてリダクティブなこ となんだ、と。野心を持つということは、特定のねらいを持つということでもある。ところがこのねらいは誰にもわからない。野心的な人はたかだか望まれた立 場や身分を勝ち取りたい、という目的くらいしか明らかにしない。それを手段として何をなすか、ではない。大統領になりたいという欲望を声高に叫ぶ人はいる だろうけど、それが現実のものとなったときに彼らが何をするのかなんて一体誰に分かるのだろうか。
Continue reading Volume#13 Editorial.
7月29日の水曜日13時よりREADTANKを行います。
今回もまだまだ「Volume」序文を読んでいきます。
今回もまだまだ「Volume」序文を読んでいきます。
ドバイでの目覚め
オレ・ボウマン
何年もの間、君は死んでいたと思われていた。植物人間になり、生命維持システムに頼っていた君は。夢遊病者のように意味のない言葉をつぶやき、そこにはない何かをみつめている君。
いかなる刺激にも反応せず、医者も君をどう回復させたものか分からない。彼らは君を外に連れ出す。新鮮な空気が手助けしてくれるかも知れないからだ。彼らはショック治療を試みる。そして、ついに、彼らは君のための居場所を見つける。そこの空気は本当に新鮮なわけじゃないが、その場所は確かに衝撃的なものだ。
オレ・ボウマン
何年もの間、君は死んでいたと思われていた。植物人間になり、生命維持システムに頼っていた君は。夢遊病者のように意味のない言葉をつぶやき、そこにはない何かをみつめている君。
いかなる刺激にも反応せず、医者も君をどう回復させたものか分からない。彼らは君を外に連れ出す。新鮮な空気が手助けしてくれるかも知れないからだ。彼らはショック治療を試みる。そして、ついに、彼らは君のための居場所を見つける。そこの空気は本当に新鮮なわけじゃないが、その場所は確かに衝撃的なものだ。
Continue reading Volume#12 An Awakening in Dubai.
ラスト・チャンス?
レム・コールハース(Rem Koolhaas)
私たちは終わりの時代に生きている。それは新たな始まりの時代ではない。
世界からもう一度やり直せる場所がなくなりつつある...
汚されていないキャンバスのように、ガルフ沿いの砂と海は、新しいアイデンティティがそこに記される究極のタブラ・ラサを与えてくれる。ヤシ、世界地図、文化資本、財界の中心、スポーツシティ...
レム・コールハース(Rem Koolhaas)
私たちは終わりの時代に生きている。それは新たな始まりの時代ではない。
世界からもう一度やり直せる場所がなくなりつつある...
汚されていないキャンバスのように、ガルフ沿いの砂と海は、新しいアイデンティティがそこに記される究極のタブラ・ラサを与えてくれる。ヤシ、世界地図、文化資本、財界の中心、スポーツシティ...
Continue reading Volume#12 Last Chance?.
破壊の建築
オレ・ボウマン(Ole Bouman)
ケヴィン・サイツという名前を耳にしたことがあるだろうか。彼はとあるブログを運営するひとりのリポーターであり、現在ではYahoo!と共同し、世界の「ホット・ゾーン」での彼の経験を私たちに伝えてくれている。数十の紛争地域で彼は一体型ヴィデオカメラを装備し、人々に彼ら自身の物語を語らせることで「その紛争が現場ではどのように感じられるのか」をたった独りで取材しようとしている。たとえ高いプロ意識のような覆いやグローバルな読者といった虚飾のもとにあっても、状況はこれほど多くの人々を巻き込むぞっとするようなものであるのかということを感じられるだろう。
それが報道範囲の問題であろうが、実際量の問題であろうが、紛争がますます不可避的なものであると考えられるような時代に私たちが生きているということは 明らかである。それが当然のものとされているのだ。2001年、ワールドトレードセンターへの攻撃をもってひとつの時代が始まった。そこでは21世紀にお ける暴力が必ずしも人々に向けられるわけではなく、もちろんそうではあるのだが、それよりもむしろ、建物に加えられるのだと私たちは実感しはじめるのだ。 敵の評価システムの象徴として(サマーラのモスクのように)それらは攻撃され、また爆撃され、あらゆる大量虐殺が今までになした以上に強烈な怒り、恐れ、 そして鬱積した憤りを引き起こす。また、ただ敵と戦うことのみならず、敵や、敵をかくまっているかもしれない人々の住居やインフラを狙うことが争いの新た な潮流となった。要するにテロリストの襲撃や先制攻撃の理由がより曖昧になる一方で、報復の度合いはより高くなり、それに付随する苦痛は今までよりも広範 囲にわたるようになった。そしてより重要なことに、破壊はもはや盲目的な憤怒の放出ではなく、大方几帳面な計算くらいのものになりつつある。破壊さえまた別の建築となるのだ。
オレ・ボウマン(Ole Bouman)
ケヴィン・サイツという名前を耳にしたことがあるだろうか。彼はとあるブログを運営するひとりのリポーターであり、現在ではYahoo!と共同し、世界の「ホット・ゾーン」での彼の経験を私たちに伝えてくれている。数十の紛争地域で彼は一体型ヴィデオカメラを装備し、人々に彼ら自身の物語を語らせることで「その紛争が現場ではどのように感じられるのか」をたった独りで取材しようとしている。たとえ高いプロ意識のような覆いやグローバルな読者といった虚飾のもとにあっても、状況はこれほど多くの人々を巻き込むぞっとするようなものであるのかということを感じられるだろう。
それが報道範囲の問題であろうが、実際量の問題であろうが、紛争がますます不可避的なものであると考えられるような時代に私たちが生きているということは 明らかである。それが当然のものとされているのだ。2001年、ワールドトレードセンターへの攻撃をもってひとつの時代が始まった。そこでは21世紀にお ける暴力が必ずしも人々に向けられるわけではなく、もちろんそうではあるのだが、それよりもむしろ、建物に加えられるのだと私たちは実感しはじめるのだ。 敵の評価システムの象徴として(サマーラのモスクのように)それらは攻撃され、また爆撃され、あらゆる大量虐殺が今までになした以上に強烈な怒り、恐れ、 そして鬱積した憤りを引き起こす。また、ただ敵と戦うことのみならず、敵や、敵をかくまっているかもしれない人々の住居やインフラを狙うことが争いの新た な潮流となった。要するにテロリストの襲撃や先制攻撃の理由がより曖昧になる一方で、報復の度合いはより高くなり、それに付随する苦痛は今までよりも広範 囲にわたるようになった。そしてより重要なことに、破壊はもはや盲目的な憤怒の放出ではなく、大方几帳面な計算くらいのものになりつつある。破壊さえまた別の建築となるのだ。
Continue reading Volume#11 The Architecture of Destruction.
扇動
ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)
あなたが住んでいるところならばまた違っているかもしれないが、米国では一般に扇動が不足している。同業者の慣習的視点への対立を引き起こしてやろうという試みがあまりない。扇動者や、確立された価値に挑戦することで我々の制度の骨格を明らかにしようとする人はほとんどいない。そして、今日の包括的な状態において、扇動させられたりいらいらさせられたりと感じることはほとんどない。
扇動の不足は扇動的なことである。講義や、パネルディスカッションや、学術的プレゼンテーションにおいて人を揺るがすような視点を示そうという意識がほとんどない。明確に異なった立場にある人たちでさえ、不一致を示しているとあまり言われていない。議論が建設的な論評と協力的な取り決めに置き換わっている。骨の折れる努力は論争を激しくするより、むしろ補足的な視点へ費やされている。扇動の欠乏は平穏な状態に道をゆずる。全体としては、バランスの良い議論を通して洞察が得られるのだ、という発展への信念を感じることができる。でも不一致を許容し対立をはっきり述べさせることで評判の学校でさえも、内実はまあ静かなものである。
ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)
あなたが住んでいるところならばまた違っているかもしれないが、米国では一般に扇動が不足している。同業者の慣習的視点への対立を引き起こしてやろうという試みがあまりない。扇動者や、確立された価値に挑戦することで我々の制度の骨格を明らかにしようとする人はほとんどいない。そして、今日の包括的な状態において、扇動させられたりいらいらさせられたりと感じることはほとんどない。
扇動の不足は扇動的なことである。講義や、パネルディスカッションや、学術的プレゼンテーションにおいて人を揺るがすような視点を示そうという意識がほとんどない。明確に異なった立場にある人たちでさえ、不一致を示しているとあまり言われていない。議論が建設的な論評と協力的な取り決めに置き換わっている。骨の折れる努力は論争を激しくするより、むしろ補足的な視点へ費やされている。扇動の欠乏は平穏な状態に道をゆずる。全体としては、バランスの良い議論を通して洞察が得られるのだ、という発展への信念を感じることができる。でも不一致を許容し対立をはっきり述べさせることで評判の学校でさえも、内実はまあ静かなものである。
Continue reading Volume#10 Agitation.
5月31日の日曜日19時よりREADTANKを行います。
【時間の記載を間違えておりました。19時からです。ごめんなさい】
今回も引き続き「Volume」序文を読んでいきます。
今回の担当は以下の通りです。
【時間の記載を間違えておりました。19時からです。ごめんなさい】
今回も引き続き「Volume」序文を読んでいきます。
今回の担当は以下の通りです。
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榊原:Volume#11 The Architecture of Destruction
近藤:Volume#10 Introduction
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参加をご希望の方は当日までにご一報ください。
現在ウェブ上で閲覧可能な文章一覧(参考)をご参照の上、
ご希望の序文を翻訳したものをご持参くださると幸いです。
激増する実践
エドウィン・ガードナー
定義は、用語や概念の実践に社会一般の合意を見つけようとするもの、つまり制度、委員会、そして辞書といったものによって決められ、そして実践は専門家らによって決められる。彼らは固定された定義には興味がないが、用語の使用における終わりなき可能性に関心がある。ただその実践の中でも、「オリジナルな実践」であると主張される実践、つまりその分野の用語を「正しい」意味で使用する特権を与えられた正当な後継者に関しては話が変わる。このオリジナルな実践というものは、その定義が誤用されるとき常に無礼を覚えるのであり、ゆえにそのギルドや制度と共に誤用に立ち向かうのである。
どのようにして建築という領域が打ち立てられ、形作られ、構成されているのだろうか? この問いはさまざまに言い直されうるが、合意には決して至らないであろう。建築はディベロッパーや土建業者らに割り込まれ、建築用語や概念を彼ら自身の用法であやつり主張する建設産業外のあらゆる実践によって食い物にされている領域だ。建築という領域の定義は「古い」内側と新しく常に変化する外側との折衝によって決まる。その内側が、ビッグマネーの、不動産の、そして政治の暴力を締め出す根拠を守る黄金の鳥籠をその分野を取り囲むようにして打ち建てる一方、その外側は領域の境界線を外側へと押し広げんとする、建築のための概念を発展させている。ただそうした主導権の中には、建築の制度的な黄金の鳥籠の格子と、領域の新しい地平との間にある溝に橋を架けようとする。それは分野固有の知識と、いまだ「建築」としてとらえられあるいは売られているものの外側との間を行ったり来たりしているのだ。建築の近隣や重複する分野の「デザイン」を見ていると、イギリスにあるデザインカウンシルによって設立されたリサーチと発展のチーム「RED」が素晴らしい例となってくれそうだ。デザイン領域の限界について考えるとき、彼らはチャールズ・イームズが「デザインの境界線とは何か?」という質問に対してなした答えを引く。曰く「問題の境界線とはなにか?」と。
エドウィン・ガードナー
定義は、用語や概念の実践に社会一般の合意を見つけようとするもの、つまり制度、委員会、そして辞書といったものによって決められ、そして実践は専門家らによって決められる。彼らは固定された定義には興味がないが、用語の使用における終わりなき可能性に関心がある。ただその実践の中でも、「オリジナルな実践」であると主張される実践、つまりその分野の用語を「正しい」意味で使用する特権を与えられた正当な後継者に関しては話が変わる。このオリジナルな実践というものは、その定義が誤用されるとき常に無礼を覚えるのであり、ゆえにそのギルドや制度と共に誤用に立ち向かうのである。
どのようにして建築という領域が打ち立てられ、形作られ、構成されているのだろうか? この問いはさまざまに言い直されうるが、合意には決して至らないであろう。建築はディベロッパーや土建業者らに割り込まれ、建築用語や概念を彼ら自身の用法であやつり主張する建設産業外のあらゆる実践によって食い物にされている領域だ。建築という領域の定義は「古い」内側と新しく常に変化する外側との折衝によって決まる。その内側が、ビッグマネーの、不動産の、そして政治の暴力を締め出す根拠を守る黄金の鳥籠をその分野を取り囲むようにして打ち建てる一方、その外側は領域の境界線を外側へと押し広げんとする、建築のための概念を発展させている。ただそうした主導権の中には、建築の制度的な黄金の鳥籠の格子と、領域の新しい地平との間にある溝に橋を架けようとする。それは分野固有の知識と、いまだ「建築」としてとらえられあるいは売られているものの外側との間を行ったり来たりしているのだ。建築の近隣や重複する分野の「デザイン」を見ていると、イギリスにあるデザインカウンシルによって設立されたリサーチと発展のチーム「RED」が素晴らしい例となってくれそうだ。デザイン領域の限界について考えるとき、彼らはチャールズ・イームズが「デザインの境界線とは何か?」という質問に対してなした答えを引く。曰く「問題の境界線とはなにか?」と。
Continue reading Volume#7 Exploding Practice.
パワー・オブ・アーキテクチャー(エディトリアル)
オレ・ボウマン(Ole Bouman)
人々が私に質問を投げかけている間に...
私が受けた幾つかの質問。なぜこの雑誌は、テクストがあまりに多かったり少なかったりして読みづらくなっているのか。なぜこの雑誌はコロコロ変わるのか。この雑誌はもう建築そのものについて扱わないのか?それはなぜか?なぜこの雑誌は私に必要な分の最新情報を与えてくれないのか?なぜこの雑誌は私のいる地方の本屋では買えないのか?なぜこの雑誌は英語でしか書かれていないのか?
オレ・ボウマン(Ole Bouman)
人々が私に質問を投げかけている間に...
私が受けた幾つかの質問。なぜこの雑誌は、テクストがあまりに多かったり少なかったりして読みづらくなっているのか。なぜこの雑誌はコロコロ変わるのか。この雑誌はもう建築そのものについて扱わないのか?それはなぜか?なぜこの雑誌は私に必要な分の最新情報を与えてくれないのか?なぜこの雑誌は私のいる地方の本屋では買えないのか?なぜこの雑誌は英語でしか書かれていないのか?
Continue reading Volume#6 The Power of Architecture, Part II (Editorial).
5月2日の土曜日13時よりREADTANKを行います。
今回も引き続き「Volume」序文を読んでいきます。
今回も引き続き「Volume」序文を読んでいきます。
今回の担当は以下の通りです。
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川勝:Volume#6 The Power of Architecture, Part II (Editorial)
榊原:Volume#7 Exploding Practice
近藤:Volume#10 Introduction(ウェブ上では閲覧不可)
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参加をご希望の方は当日までにご一報ください。
現在ウェブ上で閲覧可能な文章一覧(参考)をご参照の上、
ご希望の序文を翻訳したものをご持参くださると幸いです。
権力に関して頻繁に尋ねられる質問
ボリューム(Volume)
なぜヴォリューム5号はイメージの分野を取り扱うのでしょうか?
ボリューム(Volume)
なぜヴォリューム5号はイメージの分野を取り扱うのでしょうか?
権力は常にイメージに巻き込まれ、それなしでは考えることさえできないが、権力なるものはそれらイメージのどこにも見られない。決してだ。権力は特定の行動というよりもむしろ行為への潜在力であるため、権力それ自体は不可視なのだ。このつかみどころのない性格はその力の源である。権力を学ぶためには異なった見方が必要だ—より微妙な兆しをさがし、より広いイメージ領野のモザイクを精査するという具合に。最も強大な力は表面上些細な効果を通して稼動するのである。
Continue reading Volume#5 Power FAQ.
カミング・アップ(エディトリアル)
ボリューム(Volume)
At most, these issues are paid lip-service with vague proclamations. Seldom are these proclamations connected to a sound analysis of the power structures determining architecture's fading role but also its explosive potential.
--
建築に関する声明の漠然さ
これらの号は、せいぜい漠然とした声明を伴う口先だけのお世辞を言われているにすぎない。これらの声明のなかで、建築の衰退する役割を規定するがその爆発的な潜在能力も規定する、権力構造の深い分析と関係づけられているものはほとんどない。
The consequence is an architecture that is either a subservient instrument for political strategies or the self-appointed therapist of its tormented self. An architecture that has become pointless in its actions, lost in its awareness.
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建築の行動の無意味化
その結末はというと、建築は政治的戦略のための従属する手段、または自己苦悩の自称セラピストのどちらかであるということになる。振る舞いが無意味になった建築は、意識を失った。
ボリューム(Volume)
At most, these issues are paid lip-service with vague proclamations. Seldom are these proclamations connected to a sound analysis of the power structures determining architecture's fading role but also its explosive potential.
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建築に関する声明の漠然さ
これらの号は、せいぜい漠然とした声明を伴う口先だけのお世辞を言われているにすぎない。これらの声明のなかで、建築の衰退する役割を規定するがその爆発的な潜在能力も規定する、権力構造の深い分析と関係づけられているものはほとんどない。
The consequence is an architecture that is either a subservient instrument for political strategies or the self-appointed therapist of its tormented self. An architecture that has become pointless in its actions, lost in its awareness.
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建築の行動の無意味化
その結末はというと、建築は政治的戦略のための従属する手段、または自己苦悩の自称セラピストのどちらかであるということになる。振る舞いが無意味になった建築は、意識を失った。
Continue reading Volume#4 Coming up(Editorial).
スピン・オブ・アーキテクチャー/アーキテクチャー・オブ・スピン
オレ・ボウマン(Ole Bouman)
英国下院議員ジョージ・ガロウェイが、石油・食糧交換計画への彼の不正関与の可能性を調査していた米国上院のパネルの前に引き出されたとき、彼は共和党の大多数に対して注目すべき痛烈な非難をなす。彼らは自身の保守政策に基づき世界規模で事物のオーダーをせわしなく変化させようとしていた。彼は上院のパネルを「あらゆる煙幕の母」と呼ぶ。2003年イラク侵攻へと至る例の「嘘のつめあわせ」から注意をそらすために使われた、というわけだ。
祖国ロンドンに戻ったとき、彼は自身の賛同者たちから真実のチャンピオンとして迎えられた。イギリスでもそうだが、根拠なき理由から戦争を実行しようとし、国際法を蹂躙し、誠実さと正直さという倫理的スタンダードに楯つこうとする米国政権に向かって彼は果敢にも声を上げたわけだ。ハロウェイはジョン・ケリーが大統領キャンペーンの時にちょくちょく示唆していたにもかかわらず、ことあるごとに発言を避けようとした内容を敢えて主張した。曰く、保守的なアメリカは嘘に基づく幸福を追い求めている、と。政治的な溝はもはや左と右、急進派と保守派との間にあるのではなく、むしろ嘘と誠との間にある。より深いレベルで、権力闘争は現実を規定し、それらの規定に世界規模の重要性を持つ決定の基礎を据えんとする者に関するものだ。
英国下院議員ジョージ・ガロウェイが、石油・食糧交換計画への彼の不正関与の可能性を調査していた米国上院のパネルの前に引き出されたとき、彼は共和党の大多数に対して注目すべき痛烈な非難をなす。彼らは自身の保守政策に基づき世界規模で事物のオーダーをせわしなく変化させようとしていた。彼は上院のパネルを「あらゆる煙幕の母」と呼ぶ。2003年イラク侵攻へと至る例の「嘘のつめあわせ」から注意をそらすために使われた、というわけだ。
祖国ロンドンに戻ったとき、彼は自身の賛同者たちから真実のチャンピオンとして迎えられた。イギリスでもそうだが、根拠なき理由から戦争を実行しようとし、国際法を蹂躙し、誠実さと正直さという倫理的スタンダードに楯つこうとする米国政権に向かって彼は果敢にも声を上げたわけだ。ハロウェイはジョン・ケリーが大統領キャンペーンの時にちょくちょく示唆していたにもかかわらず、ことあるごとに発言を避けようとした内容を敢えて主張した。曰く、保守的なアメリカは嘘に基づく幸福を追い求めている、と。政治的な溝はもはや左と右、急進派と保守派との間にあるのではなく、むしろ嘘と誠との間にある。より深いレベルで、権力闘争は現実を規定し、それらの規定に世界規模の重要性を持つ決定の基礎を据えんとする者に関するものだ。
何もしないってのはそれほど悪いことじゃない
オレ・ボウマン(Ole Bouman)
成功はポートフォリオの充実にかかっている。プロジェクトの規模、名のあるクライアント、有名性の氾濫、そしてナルシスト的で、とりつかれたような、芝居じみてとどまるところを知らないパーソナリティーにかかっていることも忘れてはいけない。抑制のない野心は有名建築事務所や有名建築学校の証であり、そこでは「家に帰ること」はギブアップに等しい。クライアントのプログラムに従った要求を満たすだけの骨折り仕事から逃れたいと願うものにとって、机の下で寝るなどということはよくあることである。まったくノーマル。もしあなたが思考せる創造的な建築家になりたいのならば、何かをなし得るだけではダメで、それをなさねばならない。仕事、仕事、仕事。それをモットーに。
しかし建築はこの量的な意味においてのみ過激主義的だというわけではなく、過激主義的デザインに対する強い好みも持っている―多くというよりも、強度に。おそらく世界で最も議論されている二つのモニュメントを建築するプロジェクトとして、ダニエル・リベスキンドの「グラウンド・ゼロ」計画、そしてピーター・アイゼンマンの「ベルリン・ホロコースト・モニュメント」計画が挙げられる。このどちらもがトラウマ的な不在を物理的にも道徳的にも満たすことを中心的な題目としている。そしてどちらもが悪に犯された場所にある建物を組み込み、どちらの場合にもその解は過激主義的な規模の表現となっている。世界で最も大きいモニュメントだったり、最も高い塔だったりという具合に。一方これらとは正反対の意図による提案も存在した。それはささやかで微妙なサジェストであり、その空っぽさを無効にするというよりはむしろそれを記すことが目指されていた。これらのデザインは知られていないも同然であって、建築家の間でさえそうなのだ。もちろん建つ見込みはない。
オレ・ボウマン(Ole Bouman)
成功はポートフォリオの充実にかかっている。プロジェクトの規模、名のあるクライアント、有名性の氾濫、そしてナルシスト的で、とりつかれたような、芝居じみてとどまるところを知らないパーソナリティーにかかっていることも忘れてはいけない。抑制のない野心は有名建築事務所や有名建築学校の証であり、そこでは「家に帰ること」はギブアップに等しい。クライアントのプログラムに従った要求を満たすだけの骨折り仕事から逃れたいと願うものにとって、机の下で寝るなどということはよくあることである。まったくノーマル。もしあなたが思考せる創造的な建築家になりたいのならば、何かをなし得るだけではダメで、それをなさねばならない。仕事、仕事、仕事。それをモットーに。
しかし建築はこの量的な意味においてのみ過激主義的だというわけではなく、過激主義的デザインに対する強い好みも持っている―多くというよりも、強度に。おそらく世界で最も議論されている二つのモニュメントを建築するプロジェクトとして、ダニエル・リベスキンドの「グラウンド・ゼロ」計画、そしてピーター・アイゼンマンの「ベルリン・ホロコースト・モニュメント」計画が挙げられる。このどちらもがトラウマ的な不在を物理的にも道徳的にも満たすことを中心的な題目としている。そしてどちらもが悪に犯された場所にある建物を組み込み、どちらの場合にもその解は過激主義的な規模の表現となっている。世界で最も大きいモニュメントだったり、最も高い塔だったりという具合に。一方これらとは正反対の意図による提案も存在した。それはささやかで微妙なサジェストであり、その空っぽさを無効にするというよりはむしろそれを記すことが目指されていた。これらのデザインは知られていないも同然であって、建築家の間でさえそうなのだ。もちろん建つ見込みはない。
Continue reading Volume#2 Doing Nothing is Almost All Right(Editiorial).
建築のための新たなヴォリューム(エディトリアル)
オレ・ボウマン(Ole Bouman )
あらゆる書かれたものは空間を構成する(これは確かに比喩的な関係ではあるが、非=物質的プロセスのどんな描写も比喩的であるという限りにおいてそうなのである。思考は飛翔し、愛はためらいがちで、憎悪は燃え、そして書かれたものは空間を形づくる)。
このような事実を考えると、建築家とおなじ道具を私は使用している。私は自らの小説のために空間的なプランを引く。これらの線描は構成のプロセスに必要不可欠のものだ。私はまた自らのマテリアル(つまり言葉)の寛容さや度量を試験し、それから自身の空間的なプランをそうした実際的制限に適うよう調整するのである。私は使用のために建てる。私は自らの読者を見越して自身のテクストを組み立てるのだ。私が書いた空間へ彼らが住むことによって、その意味と機能は永続的に変化するだろう。しばしば私はクライアントの委託で仕事をする。今もそうだ。「編集者」というクライアントは私に圧力をかけ、彼らの要求を通そうとする。そして私はそうする。建築家の社会的スキル―これは一種の「建築的知識」だろうか―は、私が書くときにも採用されるというわけだ。
オレ・ボウマン(Ole Bouman )
あらゆる書かれたものは空間を構成する(これは確かに比喩的な関係ではあるが、非=物質的プロセスのどんな描写も比喩的であるという限りにおいてそうなのである。思考は飛翔し、愛はためらいがちで、憎悪は燃え、そして書かれたものは空間を形づくる)。
このような事実を考えると、建築家とおなじ道具を私は使用している。私は自らの小説のために空間的なプランを引く。これらの線描は構成のプロセスに必要不可欠のものだ。私はまた自らのマテリアル(つまり言葉)の寛容さや度量を試験し、それから自身の空間的なプランをそうした実際的制限に適うよう調整するのである。私は使用のために建てる。私は自らの読者を見越して自身のテクストを組み立てるのだ。私が書いた空間へ彼らが住むことによって、その意味と機能は永続的に変化するだろう。しばしば私はクライアントの委託で仕事をする。今もそうだ。「編集者」というクライアントは私に圧力をかけ、彼らの要求を通そうとする。そして私はそうする。建築家の社会的スキル―これは一種の「建築的知識」だろうか―は、私が書くときにも採用されるというわけだ。
Continue reading Volume#1 A new volume for architecture.(Editiorial).
3月28日13時からREAD TANK開催します。
AMO+Archis+C-labによる「Volume」を読んでいきます。
Volumeにかんしてこちらを・・・
場所:radlab.
時間:13時〜17時
参加者募集しています。
リーディングサークル「READ TANK」をスタートさせます。 読書経験を共有し、また議論していく事で理解を深め、建築についてみんなで考える時間にしていきます。 意欲を持った参加者募集。


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