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Volume#08 Ubiquitous China

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遍在する中国
オレ・ボウマン


今日まで、この雑誌では真っ先に時代遅れになるようなアートではなく、未来における好機の前触れとなるジャーナリズムを支持してきた。何かを見つけたり予測したりするようなジャーナリズムは、必要とあらば、予防的でありかつ先制的でもある。それは既に終わった取引に覆いをかけてしまうわけではなく、その可能性を露わにする。とりわけ建築ジャーナリズムは長い間、受身的な考え方にこもることで屈辱を感じてきた。その考えとは、何か出来事が終わるまで待つのだが、現実の生活が落ち着く前に一番乗りしようとする考え方だ。


ジャーナリズムにかかる問題として、建築の新しい課題は何か、建築的知の適用の可能領域はどこまでかということを私たちは扱ってきた。これらに対する答えは、年代記的な結果の羅列の中ではなく、可能性の領域の中にある。建築的知の始まりが5 - 10年前(建築プロジェクトの完成に必要な平均的な年数)でしかないような既存の建物について学ぶ代わりに、私たちは建築的知の未来を描くべきではないだろうか。

ダイナミシティ
—変化するメトロポリスための戦術
エミリアーノ・ガンドルフィ(Emiliano Gandolfi)


多くの建築家たちにとって、都市の静的な理解に基づくこれまでの実践は現代の大都市を理解する手段としてあまり効率的でないことが明らかになりつつある。今日私たちが住む都市はもっとダイナミックなものだ。前世紀末に起こった技術的かつ社会地理学的な革命によって都市は急速に変わり、あまりに広大に、あまりに無定形になったがために、計画の無秩序化に対する大規模な戦略がもはや通用しなくなっている。ときに、ある展覧会が現代建築のなかで最も重要なひとつの傾向が持つアウトラインをトレースし、それら起こりつつある姿勢を規定する方法論に目を向ける機会を与えてくれる。


「ダイナミシティ」展。この展覧会では4組の建築組織による仕事が展示されている。彼らは戦術的に都市のダイナミックさへと介入し、その再読を可能とするために都市の風景をたどり、トレースし、そしてマッピングすることを自身の役割として見ている。「アクタール・アルキテクチュラ(Actar Arquitectura:スペイン)」、「アトリエ・ワン(Atelier Bow-Wow:日本)」、「コーラ(Chora:オランダ)」、「オッセルヴァトリオ・ノマド(Osservatorio Nomade):イタリア」の4組だ。彼らは、都市生活の質、快適さ、コミュニケーションシステム、そして感覚的側面などの優れた分析を行いながら、都市環境を再考し再提示する。私たちに都市のダイナミックな側面を見せ、理解させる仮設構築物、マップ、モンタージュ、そしてそこに身を置くことさえできる他の構築物をも造り出した。

RT|Articles in volume and its translation

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2012.2.21
"DYNAMICITY: Tactics for a Changing Metropolis" from volume#04 榊原(参照

2012.1.31
"Urban Conspiracy" from volume#29 榊原(参照

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Volume#29 Urban Conspiracy

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都市の共謀
ジェフリー・イナバ


とある隠れた組織が人類を我が手にしようと試みを続けている。関与する人員数は完全には知られていないが、おおよその概算は数百万にものぼる。彼らは中東、アフリカ、アジア、アメリカにわたって存在しており、最も集中しているのはヨーロッパだ。そのほとんどが60代から80代、「リタイア組」とか「パートタイムボランティア」とか「最も長い時間を孫と過ごしている人たち」とか言われていたりする。


第二次世界大戦の直後に生まれ、冷戦というパラノイア期のなかで成人を迎えた彼ら、いわゆる「高齢者」は、いまになって明るみに出始めた課題のもとに結束することで不安的な権力闘争に挑む。政治的激変のなかで成長したという苦悩もあり、彼らは不調和の無い世界をつくろうとしたわけだ。激しくダメージを受けた都市地域を目の当たりにしたという直接的な経験によって、こうした高齢者集団は都市を調和のとれた場にするためのチャンネルを秘密裏につくろうと取り組んだ。彼らの努力は今日、公園、広場、ウォーターフロント、サステイナブルな緑地帯、再生されたインフラ、農産物の直売所、自転車専用道路、道路景観、そしてコミュニティ・ガーデンといった形で目に見えるようになっている。

Volume#28 Correlation Designing

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相関性のデザイン
エージェン・オースターマン


20年ほど前、建築雑誌は「完成したばかり」のプロジェクトを下見してもらったり、内覧したり、写真を見てもらったりする機会への招待にまみれていた。10年くらい前になると、コンペに勝った提案についてのプレスリリースが情報欄にどんどん加えられるようになった。ちょっと前には特別なお知らせが出回るようになった。コンペへの提案それ自体さえパブリシティのチャンスとなったのだ。「今朝8:30に事務所をスタートさせました。新しい朝が私たちの目の前に広がり、期待に胸溢れています」みたいなことをプレスリリースが伝えるようになるまでは時間の問題と思われるかもしれない。パブリシティ、イコール、経済。おそらくそれはいまだにそうだ。でも名刺代わりのプロジェクトが、つまりはっきりと「誰々の」と認識しうる仕事が必然的に新たな業務を直接引っ張ってきたりするわけじゃない。もうそういう風にはなっていないことを私たちは知っている。大抵の西欧諸国でそうじゃないし、多くの事務所だって然り。90年代後期、縮小というものが興味深い都市現象、すなわち建築家というプロフェッションにとっての新たな挑戦として発見された。今日このテーマは最も予期しないかたちでそのプロフェッションに降りかかっている。クライアントがいない。ほんとにいないのだ。


これはどこにでも当てはまる現象じゃない。アジアではどでかいデザインタスクやら建設仕事やらを向こう数十年抱えている。ラテンアメリカだって、その先に横たわっているものがアジアが直面しているものとは比較にならないにせよ、まだ終わっちゃいない。それからアフリカ。そう、アフリカ。ちょっと付け加えておくと、デザインに対する需要と機会は十分ある。これが西洋になると、主に既存のストックをどう生かすかが問題となっている、んじゃないか? 社会における変化は新たな働き方や来るべきデザインにとっての新たな領域を示唆してくれる。

Volume#3 Transnational Space

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国境を越える空間
Regina Bittner, Wilfried Hackenbroich, Kai Vockler


※以下は「volume」誌の第3号に掲載された「Transnational Spaces」という記事の一部です。全訳です。


第6期「Bauhaus Kolleg」は、アーバン・メトロポリスにおける国境を越える空間の発展に着目している。このプログラムが焦点化しているのは、グローバリゼーションという現象がローカルな形の適応を引き起こしているという特定の空間的布置である。


これらの地域やそこでの進展は今日の都市や建築の計画にとって重要な場となっている。経済や金融、国際的な移動、グローバルメディア、そしてコミュニケーションネットワークの越境は、すべて文化的、経済的、そして社会的な活動がもはやローカリティに制限されていないような都市のコアにおける国境を越える空間の発生につながっている。ここでは、人々、商品、情報、そしてシンボルが移動していくことの強化や成長が最も分かりやすい。ローカリティが「フローの空間」へととけ込んでいくプロセスとしてのグローバリゼーションという考え方に対して、このプログラムは国境を越える諸々のネットワーク相互の関連、特定の空間に集まってくるローカルな実践、地域を越えた実践、そして国境を越えた実践の交わりを探究していく。こうした場の中で、日常的実践は固定化された国境線から切り離され、国境を越える社会的空間へと発展する。近隣やコミュニティという伝統的な考え方では、こうした現象はうまく説明できない。多様な地理学的地域のなかにある社会的生の現実は、こうしたネットワーク内で生まれ、新たな形のハイブリッドを生み出すのだ。国境を越える空間は、ローカリティとグローバリゼーションとの間の変化した空間的相互関係を研究するための情報に溢れた場なのだ。新たな、そしてはっきりとは明らかにしづらい関係性が生まれてくるごとに —空間と社会との間に、また物理的環境と社会的行為との間に— これは建築や都市計画のための新たな課題を提示する。これらは特定の場所やその直接的な文脈にはほとんど関係がなく、むしろその地域を越える連関のなかで場が持つ機能に関係しているのだ。

ブロードキャスティング・アーキテクチャー:C-LABケースファイル
Jeffrey Inaba, Felicity D. Scott, Nadar Vossoughia


とりわけ学術機関においてアウトプットの激化が起こっている。建築スクールはいままでにないほど多くのタイトルを活字にしている。そうした活動への支援によって、そうでなければ日の目を見なかっただろう幅の広い学術的で実験的な資料が出回るようになった。1990年代後半には量の点での最高値をたたき出す。建築の出版全体、それからアメリカの学校が出資した出版の件数は新記録を打ち出し、それが結果ピークとなった(「Avery Index」や「American Publishing System」を参照)。いまだ上がり続けている唯一のものはその請求額くらいだ。「リサーチライブラリ組織 the Association of Research Libraries」、「アメリカ大学組織 the Association of American Universities」、そして「ピュー高等教育ラウンドテーブル the Pew Higher Education Roundtable」によって支援された研究によれば、この十年間に出版された学術誌一般の値はUS消費者物価指数の三倍の率、そして医療費増加率の二倍の率で増加している。言い換えれば、やたら高い値段でかなりの量の印刷物が供給されているということだ。現在私たちが経験している冷却期間は小休止を与えてくれる。だから考えよう。出版は知識を一般に入手可能にするためのメディアとして使われ続けるべきだろうか? 出版が滅びることはないだろう。でもそれは私たちが知識を伝えるほぼ唯一の手段なのだろうか? 建築スクールにとって出版は意義深いコミュニケーションと同等だ、と言うことができるのだろうか?
 

慣習的な常識としてはこうくるだろうか。メインストリーム・ブロードキャスティングの内容にはうんざりだ、と。価値ある受け取り手へと届けるために、その「産業」は「電波」を狭め、それを望む人口統計学上のニッチな関心に焦点を絞ったパッケージングをカスタマイズをする。ナローキャスティング、つまり特定の人たちへと伝達することは、建築という領域が得意とすることだ。でも、私たちは「自らのアイデア・マーケットを浸透させているのだ」ということを自身の熱心な読者たちへとうまく伝えられるのだろうか? メインストリームとなっているメディア社会を一瞥してみると、こうしたことが示唆される。私たちが自身のニッチを過剰在庫させる一方、自由市場では建築が安売りされている、と。

Volume#27 Fight and Accept

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闘争と受容
エージェン・オースターマン


2007年、金融恐慌が世界を激烈に襲ったとき、どこでも見られた反応は混じりっけなしの驚きだった。数十億、数兆ドルがこんなスピードで消えていくのかと思うと興味すら覚えるほどだ。二度と元には戻らない、と専門家は警告していたけれど、一般的な予測は、そのうち正常に回復するだろう、というものだった。私たちが生きるスペクタクル社会において、私たちは急な社会変化の昂奮に慣れている。私たちはこうしたイベントに対して、マジックを見ているかのように反応する。最初、マジシャンはあなたが見ているすべてがありふれたものであり日常のものであって、タネも仕掛けもないことを見せる。それから、彼はオーディエンスに想像もつかないことでもってびっくりさせる。そして聴衆がいまだその昂奮と戦っているとき、そして深く不安を感じているとき、正常な秩序をとりもどす —見て、何も変わってないよ、と。これは私たちが好むリアリティの理解だ。よいショー。ということで、ビジネスの話に戻ろう。


私たち自身の状況を理解するために有効な他のリアリティモデルがある。管理モデルだ。地域的な人口減少、海水面の上昇、といった具合に問題は浮かび上がる —そういう種類のものごとは、ということだけど。それは伝えられるべきであり、解決されるべきでもある。だれかがそれをしないといけない、でもそれは私の関心事ではない。政府か自治体はこの責任をとらないんだろうか? 私は税金を払っているわけだし。しかもどうあったってそれは私の手の届く範囲の話じゃない。

Volume#22 Publishing Practices

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出版の実践
マイケル・クーボ


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ここには、10のケーススタディについて、1910年から2010年までそれらが与えた影響とその後の生がグラフィックタイムラインにまとめられている。それぞれの出版物に関して、このタイムラインは「ビフォーアフター」を見せてくれる。ここで言う「ビフォー」とは、書籍のコンセプトやデザインに対する影響、同じ(あるいは異なった)書き手によるそれ以前の出版物、そして以前の出版物に見る他のフォーマット、モックアップ、そして主要なイメージソースのことであり、「アフター」というのは、同じ著者によってその後に出版されたもの、(しばしば長い時間をかけて書籍の役割が変化していく結果として)異なった目的のために書籍内容を再検討したり再出版したりすること、そして/あるいは同じ素材を後の仕事に使い回すことを指す。それぞれの出版物は、書籍の問題を通して、特定の影響を生み出すために、これら主要な資源や影響を凝縮し加工する仲介手段としてふるまうのである。


前世紀を通じてなされてきた建築の実践を考えたとき、建築家による出版は外せない。建築がそれのみにおいて自身の言説を生み出すように、書籍の言説もしばしば建築家によって、(自らの)プロジェクトが成立し、受容され、そして理解される関係空間を枠づけるために使用されてきた。先の世紀に最も目立った建築家は多産の出版者でもあったわけだ。著者、雑誌やジャーナルの編集者、はたまた出版プロデューサーのような人やその他流通チャンネルにいる人いろいろといるが、その出版形式としてはモノグラフ、マニフェスト、歴史、パンフレット、台本、そしてカタログなどがある。こうした建築家の中にはデザインプロセスそれ自体を、編集やキュレーションのひとつとしてとらえる人もいる。いくつかの事例は、建築的領域の枠内で行われたそれ以後の実践を伝える他の編集的実践、例えば、ジャーナリズム、スクリプトライティング、そしてフィルムメイキングにおける過去の背景によって支えられている。その分野的なアジェンダは、実践に直接インパクトを与えるだろう学問形態を生み出すと目される—関係分野において歴史家として訓練されてきた—有能な批評家によっても影響を与えられてきた。

Volume#25 On the Moon

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オン・ザ・ムーン
エージェン・オースターマン


いまだかつて人が月に足を踏み入れたことはない。と、いまだに信じている者もいるにはいる。そういう人はショックを受けて(きっとまた受けることになる)いることだろう。この世紀が終わるまでに、新たな月面着陸のミッションでは、月をより精密に探究するよう基地を打ち立てての長期滞在が予定されている。月への定住はもはや絵空事なんかではなく、世界中の科学者の間でその調査や発展にとって焦点化さるべき次なるステップだととらえられている。「そこにたどり着くこと」はいまだ課題であるが、「そこに滞在すること」がより大きな問題となっている。探究や開拓の目的地として、あるいは主にハブとして、月は「次の停留所」なのだ。


月に関する特集を組んでみないか、と同僚に話したとき、彼はこう返した。「もう地球に問題は残ってないってこと?」彼はこう聞こうとしたのかも。「月ってもう時代遅れじゃない? いまはどっちかっていうと火星じゃないか?」と。じゃあ後者の方から考えてみよう。この特集をどうするかという数週間の決定期間のうちに、新聞は、モスクワで行われた520日にわたる火星ミッション試験について、新しい「NASA Mars-rover」(2011年に打ち上げられる)の試験について、そして今年の終わりに国際宇宙ステーションへ送られる予定のヒューマノイドロボット「Robonaut2」について、伝えていた。それは、地球外への定住やディープスペーストラベルに関わるR&Dが現在行われている、という、氷山のより報道価値のある一角でしかなかった。そう、宇宙旅行のゴールはシフトしたのだ。でも、私たちがそのゴールに到達しようとすれば、どのみち月へ行くことになるだろう。ここで前者の方に戻って考えてみると、その答えは「ノー」となる。私たちは地球上の問題に事欠いたわけでも、それに飽きたわけでもない。建築の試験は潜在力(と弱点)を発見するよい方法だ。だから私たちの定義における人類活動の中の建築という領域を含み込むことは、興味深く、そればかりか重要なことであるとさえ考えている。もう一度含み込むべきだ、というべきか。

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